上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--

ネクサスをついこの間見始めたと思ったんだけど、
見るのサボってるうちに、気づいたらネクサスの後番組の宣伝が始まってる・・・。
7月から『ウルトラマンマックス』が始まるそうで。

てっきり1年=52話ぶんやるのかと思ってたので、こりゃ視聴率で苦戦しての37話打ち切りかなあと。
2chの特撮板覗いたら、やはり打ち切りクソ番組扱い。
しかもネクサスアンチスレが大盛況のようで・・・
まあアンチの意見をざっとみてると、言わんとすることはわかります。

アンチに反論する信者の書き込みも負けてないようで、打ち切り説への反論もかなりあるようですね。
信者VSアンチの論争が繰り広げられる作品というのはけっこういい作品だったりしますが、さてネクサスはどうでしょう。

最初から37話終了の予定だった可能性も否定は出来ませんが、
デュナミストが入れ替わるという設定は、広げれば無限のドラマが出来る可能性があっただけに、デュナミストが二人だけで放送終了というのは、やはり打ち切りに近い事情があったんじゃないかなという匂いはします。

視聴率がよければ続投のチャンスもありという感じで始まって、やっぱダメだっただけって気がしますね。

まああまりネット情報を見ると、周回遅れで視聴してる僕の視点も誘導されるので、気にしないで好きなこと書きます。
なるべくリアルタイムで見てるかのように錯覚しながら、いま駆け足でネクサス見てます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 14.15.16話

「過去は変えられないが、未来は変えられる」
というテーマを、三話かけてやっていた。

憎しみを力にして敵を倒せという女上司、凪の言葉に一見含蓄があるようにみせかけ、
憎しみでは何も解決できないという姫矢のセリフに本当のテーマがあった。

この辺の脚本の技巧の上手さは、ミステリの真犯人にいきつくまでのミスリードの手法にも似ていて、玄人っぽさを感じる。

悲しみの淵にいる孤門に立ち直るきっかけを与えたのは、凪が差し伸べた手。
そこにスポットを当てることで、凪の説教に正当性があると思わせた。
「憎しみでもなんでもいい。目の前のものをなんでも利用し糧にして、這いずるようにしてでも生きていかなきゃいけないんだよな」と。
作家自身が言いたかった、視聴者への前向きなメッセージのように見えます。

そう思わせておいて、この脚本家は前言をひっくり返す。
実は凪自身が孤門と同様に傷ついたまま、かろうじて立ち上がった状態の満身創痍状態だということが薄々わかってくるのだ。

この状況は、傷ついたもの同士が傷を舐めあい、陰のスパイラルを生み出している。
いわば悪しき共依存を表しているように思った。

凪は自分が病んでることにさえ気づかないヤバい状態なわけです。
さらには自分を鏡のように写した孤門に、正しい道と信じて無意識に自分と同じ見せ掛けの回復の道を、毒沼の上にかかった腐ったつり橋とは知らずに歩ませようとしている。
カラ元気の二人三脚で疾走する二人が行き着く先は遅かれ早かれ地獄方面だということです。

憎しみを背負って前進することは、過去の鎖のフックをはらわたにひっかけ引きずりながら、内臓をぶちまけてるような行為に似ている。
前進すればするほど自分を傷つける。

三者三様にトラウマを抱えた凪。孤門。姫矢。
この中で、この苦難になんらかの光明を与えることが出来る人間は、
トラウマに向かい合って乗り越えようとしている男、姫矢だけだったというオチ。

第16話「迷路-ラビリンス-」のクライマックスでは、ネクサスが怪獣の口をこじ開け、口の中の再生臓器を孤門が撃ち、再生するやっかいなこのビーストに止めを刺す。
その姿は、凪と孤門が支えあうのと似てはいるが、共依存というよりはまるで姫矢と孤門が互いをに刺激と影響を与え癒しあうかのような共同作業。
つまりこれはデイケアだ。
ネクサスはメンタルヘルスへの関心が高まったこの時代を反映し、人の心に焦点を当てた作品だということが明確になってきたようだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

この構成はかなり見応えのある内容だとは思う。
しかし、そのテーマを表現する手段には少しというか、かなり問題があった。

①姫矢の説教を、孤門が納得するためのエピソードが、テーマとからんでいない。

・ネズミビーストの頭に捕らわれた女の子ごと、ビーストを撃ってしまった孤門は、憎しみの無力さを知るが、憎しみの結果他人を犠牲にしたという相関関係が不明瞭。
極端にいうと、孤門は運が悪かっただけ。
それを憎しみの暴走した結果の悪影響とするのはあまりに雑な展開。

・それだけでなくネズミビーストを撃つまでの憎しみに捕らわれてる孤門の心理描写が足りず、伝わってこない。この辺はやる気がないのか、脚本の意図を読み取れず表現できなかった監督の責任もある。

・なんで二回目に遭遇したネズミビーストを攻撃できず他の隊員に助けてもらったことが「憎しみはなにも生まないと悟る」ことにつながるのかどうしても謎。
孤門が憎しみにかられた経験を思い出し、ネズミを攻撃することに疑問をもって立ちすくんだからこそ、ネズミに攻撃のスキを与えたのであって、あの状況で迷うのは孤門の弱さでしかない。
悟るきっかけとしては役不足すぎる。

②内容の重さに、表現がついていけていない。
傷ついた人間に憎しみを捨てろとまで主人公にいわせる作家は、
自らが人を殺したいほど憎んだ経験か、もしくはそれに相当する見識を明かす必要がある。
そうでないと「お前が言うなよ」という類の説教になるからだ。
もちろん作家は作品の中で勝負するのが本分である以上、作中でそれを表現する必要があるのだが、具体的にどうしたらいいというものではない。
「過去を見るな未来を見ろ」なんてセリフは頭でっかちの能天気な阿呆が言いかねない危ういセリフでもあるのだ。
マニュアルで語ると上滑りになって薄っぺらさと説教臭さだけが目立つ。


実は今回の三部作で、それをやっちゃったんじゃないかと思ってる。
シリーズ構成の長谷川か、監督の小中が意図したことが、各話の脚本家や演出家に伝わってなかったのか。
そもそもこういうテーマそのものが、どこかの小説などのパクりだったりするせいでなのかはわからないが、
テーマに内容が負けてるので、これは残念ながら失敗作。
できあがったフィルムに安っぽさがあったらどんなにテーマが深くても失敗作だ。
逆にパクりであろうと表現できてれば成功作。
やはりフィルムは最終的に監督のもの。小中和哉の力量が問われる場面だったのに。

重いテーマを扱って手馴れた手管で捌く手腕は手塚治虫もそうだった。
もしかしたら手塚の傑作「ブラックジャック」の映像化に小中が成功した(僕はそう思ってる)のは、
その手管が手塚と似たもの同士だったので波長が合ったのではないかと疑ってしまう。
ただ手塚の手練手管は常人のそれから並外れたものだったのだ。

手塚なら単刀直入に殺せという気がする。
ベトナムの戦災孤児が麻酔で動けなくなったアメリカ将校を囲むというBJのエピソードを思い出した。
ただ手塚の場合は問題提起はしても、放りっぱなしで。その語りきらないことさえも感動の演出として仕立て上げる手管が上手かっただけかもしれない。

実は駆け足で第20話くらいまで感想書こうと思ってたんだけど、3話ぶんでこれだ。
ダメだこりゃ終わらないよ。マックス始まっちゃう・・・!

2005.05.03 Comment:0 | TrackBack:0
Secret

TrackBackURL
→http://sttng.blog67.fc2.com/tb.php/36-15838e42
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。