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(twitterのツイートに加筆)
2016年04月29日(金)

『アメイジング・スパイダーマン』観たけど面白かったな。ライミ版の悲壮感は嫌いじゃないけど苦手~ってのもあり。ライミが降りて大モメの末の結果としては上々かも。
アンチライミとしてこれが見たかったってのもあるけど。それよりシンプルなプロットを邪魔しない冴えた演出の誕生譚はすかっとする。


アメイジング~は細かいところの演出やせりふ回しが一々良かった。
叔父の敵になる男の強盗の際に放り投げた(ある意味善意の)ドリンクを受け取るシーンとか、闇に落ちてる未熟なピーターの描写としてシンプルでぐさっとくる。
あれあるとないとでは「大きな責任」のテーマ性含めて印象が変わってくる

あと叔母に買って帰る約束の卵パックが無言の帰還に繋がってたり。コナーズ博士がガラスに右手を映してリザードマンになる決意をするシーン。最小限の台詞のままで奥深さを出す演出。
その台詞にしても恋模様を描くのに「部屋番号書かなかった、なぜかな」とか。さりげないとこにじわっとくるのが多い。


これは、往年のドナー版『スーパーマン』にも通じる王道リブートなんじゃないかと喜びつつ、不思議だったのは『アベンジャーズ』と同年公開だし、企画段階でマーベルのクロスオーバー作品群のラインに統合予定だとしたらそこが解せなかったのだけど。wikipeみたら2作目が興業でコケて、…

『アベンジャーズ』の流れのマーベル・シネマティック・ユニバースに組み込まれる事になったと…。『アメイジング・スパイダーマン』の本気を感じるリブートの出来にはそれで納得したけど、それだけに残念。監督同じだし、今夜放送の2にも期待してたところだったんだけど、どうなのかな。

そういや、ピーターが使ってたPCのモニタが今更SONYだったのが気になったけど。スパイダーマンの映像化の権利持ってるのはあくまでソニー傘下のコロンビア映画で、ディズニー傘下のマーベルスタジオと連携するのに渋々承諾したみたいなことかな。



2016年05月16日(月)

『アメイジング・スパイダーマン2』見た。このマーク・ウェブって監督やっぱり好き。 言葉にするとたいして文字数使わないような短いセンテンスの中にそれ以上の意味を込めようとする演出方針は、今作も冴えわたっていた。

始まりからして、墜落する機内で割れた窓から差し込む夕日を背景に息絶えた妻を見守るピーターの父の表情とその情報量。
その息子は、カーアクションの激走のさなか、並走するパトカーの中にグウェンの父の幻を見る。
そして終盤では落下する瓦礫の中で歯車などの障害物を(正確に迷いなく)避けて進みゆく<糸>、本当に大事なものを掴もうとする手のような形状の糸だ。
いずれも動の中に静を見出す演出。

冴えた演出をする監督って、映像センスとは無縁なのか。これぞという「いい絵」は一枚もない。
(これは3D上映用に見栄えのする映像を第一に考えて撮影した弊害もあるのかもしれないが)

やや現実離れしたイマジネーション先行の印象的な仕掛けの中で、カットとカットの間に込められた情報に心を誘導される感覚は、映画というよりも、行間にイメージが浮かび上がる小説の醍醐味に近いように思える。


こういう方法論が生み出す最大の効果は、恐らく個々の登場人物を掘り下げる役割で。
シーンやカットが打ち出すイメージと絡み合うように、主人公側から悪役まで、キャラの心情が最小限の方法で印象的に描き出される。
その恩恵として、『ライターの都合や偶然』によってイベントを消化している感がなく、あくまで人間の心の動きによって物語が進んでいく感覚が心地よい。
例えば、細かいとこだけど。父親から拒絶されたと思い込み、父親の素性を知ることを頑なに拒否してきたピーターが、再び猛烈に父の事を調べ始める動機が、恋人との別れが迫る不安や喪失感を振り払うためってのがいい。ストーリーが登場人物の心の動きでひっぱられていく。

大きな見せ場でいうと、電飾で飾られた街の絵面そのものには、心をつかまれる構図の冴えとか映像美は一切ないが。町を埋め尽くす電光掲示板に映された多数のエレクトロの顔が、全てスパイダーマンに書き換わっていくことで。エレクトロが抱えたやるかたない悲しみと、その奥に持ち続けた「スパイダーマンへの憧れ」が、そのままのエネルギー量で「憎み」に変化していくのが手に取るようにわかる。これでは彼が暴れるのは当然だ。エレクトロの殺意に折り紙がついたわけだ。

そしてこの映画にはもう一人の主要怪人として、グリーンゴブリンがいる。
今作のグリーンゴブリンには、父を殺したスパイダーマンへの復讐という筋書きはなく、宿命に耐える孤独と死の恐怖から心が歪んでいく過程を丁寧に描いた。

特殊な生い立ちと生活環境ゆえに、誰も信じられなくなって精神を病んだ無言のハリーが、尋ねてきた旧友ピーターを呼び止めるタイミングと確実にあった友情の存在。
変わってないものと変わってしまったものを、ここでは「スナップを利かせるんだ」と(スパイダーマンの暗示)水切りの石で表現する。
映像美よりもシチュを作り出す名人という感じだ。



物語のテーマとしては、大いなる責任というより、「大いなる挫折」から希望を取り戻す話だった。
もちろんヒーローである以上。彼が戻ってくるのは「責任」と大いに関係してるのだが。
そのために必要なプロセスの存在の方が、より強調されていたように思う。

のっぴきならない事情で街を去ったヒーローが自らの意志で帰ってくる。これはアメイジング~一作目がリチャード・ドナー版の『スーパーマン』を彷彿とさせる出来だと以前書いたのと今回も見事に対応する。


リチャード・レスター版(にドナー版から作り替えられた公開ver.)『スーパーマン2』も、ヒーローが去って、やがて使命の為に帰ってくる物語だった。アメイジング~2作目では、この構図のために次の恋人になる役割だったキャラ=メリー・ジェーンをわざわざ女優を降板させてまでして削っている。大成功だと思う。

そして、エレクトロとの悲しい出会いと対比させる構図で、かつ伏線を巧妙に隠して持ってきたラストでは。挫折から一人で立ち上がって戻ってきたスパイダーマンのフィニッシュの台詞がある。
彼を待ち望んでいた街の住民の前に帰還を果たしたものの一足出遅れた彼は、先に舞台に立ったもう一人のスパイダーマンにいつものお調子者の口調で語りかけるのだ。

「やあスパイダーマン」 は、ヒーロー映画史に残る名台詞だと思う。


マーク・ウェブ監督は「アメイジング・スパイダーマン3」を最後に勇退するつもりだったみたいだけど、興業的な理由でその続編が潰れてしまって、この監督も自動的にお役御免みたいな悲しい終わり方。
三部作にしたらライミ版を超えてた結末だったかもしれないのに。
でも、僕は次回作も注目してます。

2016.05.21 Comment:0 | TrackBack:0
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