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正直、瓜二つの男が自分を襲いに来るという手垢のついた地味な題材に、まったく魅力を感じなかったので、あまり期待はしてなかった。

それでもこの作品を手に取ったのは、近年のクーンツは『ストレンジャーズ』の頃よりも、設定の奇抜さや読者を食いつかせるつかみの面白さにはあまり頼らなくなっているという感触を得ているからだ。
その感触は、クーンツへの信頼でもある。

この信頼は僕の中のクーンツベスト作品である『心の昏き川』に、読む前にまったく食指が動かなかったという経験から来るもので、この作家はいいほうに裏切ってくれるという期待を込めたものでもある。
だからまったく期待してなかったというなら、それは間違いになるかもしれない。

ともかく、『ミスター・マーダー』は、僕の題材への気乗りのしなさを確実に裏切ってくれ、幸せな読書の時間を与えてくれた。


読んでいる途中、いくつもの魅力的なフレーズに出会い、
付箋を貼りながら読もうと思いつき。後編は実際にそうしながら読んだ。
これほど家族への愛情に満ち、希望に満ち、人間観察に基づいた人生の機微を謳いあげたSFサスペンスホラーは他にはないのではないか。

基本的な骨組みはこのブログでも紹介した『闇の殺戮』と似ている。
(その記事はこちら→)機動日記Z 『闇の殺戮』 ディーン・R・クーンツ

『闇の殺戮』で僕が気に入ったフレーズを再録。

悪は絶望を食べて大きくなる。
悪に対する最大の武器は希望、楽観、固い意志、そして信念だ。
彼ら四人が生き延びるチャンスは、希望をいだきつづけ、生きることが(死ではなく)自分達の宿命と信じ、善は悪を打ち負かすと信じる、ただひたすらに信じる力にかかっていた。


『闇の殺戮』において描かれた絶体絶命の状況におけるこの強迫観念的な「希望」への執着が、
今回読んだ『ミスター・マーダー』では、円熟味を増した筆致で描写されている。
その部分を引用。

「知っての通り、僕はフロイトの見解にはあまり賛成じゃない。人間は自分の意思によっていまの自分になるんだと思ってる。きみが生きた例だろう。子供のころあんなことを経験したあとでどうなったか」
(中略)
「ぼくらが初めて会ったとき、きみは自分が妻に、母親になることを想像できずにいた。きみにとって家族は牢獄以外のなにものでもなかった。牢獄であり、拷問室だった。また家族の一員になりたいなんて夢にも思っていなかった」
ペイジは目を開いた。「あなたが教えてくれたのよ」
「なにも教えたりしなかったよ。ぼくはただ、いい家族を、健康な家族を想像するということをきみに伝えただけだ。いったんそれが想像できれば、きみはその可能性を信じられるようになった。そこから先は、きみが自分で学んでいったんだ」

「すると人生は、ある意味でフィクションだということ?」

「すべての人生は物語さ。ぼくらは生きつづけることで、その物語を紡いでいく」


巻末にSFホラー作家の瀬名秀明による長めの解説文があり、瀬名氏はここで大事な指摘をしている。
この作品自体がメディアと登場人物と読者を多重的な相関関係の構造の中に放り込むというメタフィクショナルな仕掛けになっているというのだ。

上記の引用の部分は『闇の殺戮』の希望論に作者の年齢を重ねた経験や思想から来る肉付けがされたものだと思っていたのだが、
いわれてみると、その肉付けは、作者のメッセージにただ深みが増したというそれだけではなく、このメタフィクションの構造を意識したものに間違いない。

それは、殺人鬼の行動原理が、映画によって決められているという設定にもいえるし、敵のエージェントが読む小説が彼の仕草や言動に影響を与えているということからも明確。
さらには主人公が娘たちに読み聞かせるサンタの物語が、殺人鬼と主人公の関係になっていることは言うまでもないし、瀬名氏の指摘にはなかったが、この考え方でいくと娘たちの飼っているペットやポスターまでもこの考えの延長で計算されて配置されているように思える。
とくに(これも僕が気に入ってる付箋した箇所なのだけど)ピーパーズの描写は傑作だ。
次女エムのペットであるピーパーズは、なんと川で拾ってきた石ころで、エムの最大の友達なのだ。
エムはものをいわない空想の友達に話しかけることで、現実に大いなる心の充足を得ている。
そういった描写によって読者は、フィクションとリアルの垣根はそう明確に分けられるものじゃないのだと気づかされる。
クーンツはこの作品で、物語の世界がリアルに干渉するというテーマをかなり意識的に描いているのだ。


メタフィクショナルな作品構造の中に、クーンツの(のちの作も含む)他作品がいくつもリンクしていることは、瀬名秀明の解説でかなり詳細に解説されているけども、こうなると前後の作品をいくつか読んだ上で、この1993年に書かれた『ミスター・マーダー』を手にしたのはラッキーだった。
それは瀬名氏が指摘しているメタフィクショナルな構造を楽しむ上でも必要なことだったし、
さらには、瀬名氏の資料を大量に引用した解説により、クーンツの生い立ちが、本書『ミスター・マーダー』を含む様々な作品へ濃い影を落としていることを、瞬時に理解できるからでもある。

とくに、僕の大好きな作品『心の昏き川』(1994)にて描かれている深い心の傷と癒しの物語が、『ミスター・マーダー』で描かれたものと根を同じにしていて、それはクーンツ自身の体験からにじみ出たものだと理解できたのは大収穫だった。

初期の乱作時代から年一作主義に移行してからも、クーンツは底の浅い作家だといわれ続けていたけども。
『心の昏き川』で描かれた癒しの物語には、そのような底の浅さはとても感じられなかったので、
これに深く感じ入ってる自分が軽率で騙されやすいのだろうかと気に病んですらいたのだ。
瀬名氏の解説は、そのクーンツの「深み」に保証書をつけてくれ、僕の疑念を吹き飛ばしてくれたようで嬉しかった。
僕も解説で触れられていたS・キングの『ダーク・ハーフ』との類似には気づいていたが、
この解説を読んだ後では、キングの創作のほうが薄っぺらく思えるではないか。



この資料的価値に満ち、正確な分析と考察と作家への愛情のこもった、瀬名氏の完璧な解説文を読んだあとでは、あえて書く事などほとんど残ってないけど、最後にどうしても言いたいことがある。

しかしそれは、この作品のオチに関することで、この作品を(クーンツを知ってる人も知らない人にも)もっとたくさんの人に読んで欲しいと思っている僕としては、逆に書きにくいことなのだ。
既読の人にはそのような遠慮はいらないので大声で叫びたいくらいなのだけど、
やはり遠慮がちに書くしかない。

この作品を読んでいるとき、僕はとても幸せだったのだけど、
ひとつだけ個人的に受け容れがたい部分があって、
それはそれほど一般的なことでもない個人的な感情の問題だし、
それは小説上の技巧のことだからしょうがないと、気にしないように勤めていた。

そしてクライマックス。
その僕の不満が、すべて充足される形で最高の結末が待っているのだ。
よくやってくれたクーンツという形で。
そのカタルシスは、エンターテインメントしてのものだけではなく、
やはり先に書いた「個人的な感情」によるところが大きい。
そして瀬名氏の解説を読んだ後では、なるほどと納得できるものであった。

結末をいうわけにはいかないので、ぼかして言いたいのだけど、
ほとんどオチをいっちゃうのと同じなので、このブログでは珍しく反転という手法を使いたい。
未読の人は見たら絶対損します。本屋さんへ走ってください。
以下、僕の心の叫び。




僕はスタートレックが大好きなんです!




ある意味この興奮は、僕が瀬名氏ほどに明晰な分析力を持っていたら味わえなかったものかもしれない。
解説を読んだあとで考えてみると、このオチは明確に計算づくで布石を置いて予定されていたものなのだ。
そして反転文字に隠した叫びに込められているように、僕はそのオチを予想する上で重要なことをもともと知っていたのだ。
あー馬鹿でよかった。

もちろん、僕と同じ条件を背景にした「感情」を持つ「未読」の人で、さらに「勘」のいい人ならば、
この文を読んでしまうことで「オチ」に気づいてしまうかもしれない。
だがそこまでは面倒見切れない。
この素晴らしい作品を紹介してあげた駄賃だと思ってください。

手に取るつもりのなかった人にとって、この小説との出会いは文句なしに素晴らしいはずなのだから。
クーンツ最高!
2009.06.29 Comment:0 | TrackBack:0
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