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歌人の枡野浩一さんのtwitterやustreamでの発言からこの件に興味を持ったので、
感じたこと、考えたことを書いてみました。

(概要)
お笑い評論家のラリー遠田さんが、
podcast配信番組の『東京ポッド許可局』の中で芸人のサンキュータツオさんの話した内容をそのまま日刊サイゾーで記事にしたという疑惑です。


東京ポッド許可局 : 【第154回“お笑い批評”論 前編】
http://www.voiceblog.jp/tokyo-pod/1261615.html

東京ポッド許可局の一員、プチ鹿島氏による糾弾
http://orenobaka.com/?eid=1808

ラリー氏の言い分。
ラリー遠田氏のブログ『おわライター疾走』
「本当に許せない話」 01-02
http://owa-writer.com/2010/11/post_23.html
http://owa-writer.com/2010/11/3_1.html


重要なポイントは、

・ラリー遠田氏は東京ポッド許可局の熱心なリスナーである。
・東京ポッド許可局の一員であるマキタスポーツ氏の元担当編集者でもある。
・マキタスポーツ氏と親しい仲であるため、「サイゾーに記事を書いた。podcastの手数論に補足してまとめたような感じなんで見てくれ」と事後にマキタスポーツ氏にメールがあった。

・サンキュータツオ氏は、「アイデアは同時多発的かもしれないが、何年も前から提示してきたラッピングの方法と手法をそのまま盗まれた」という主張をしている。


以上の情報を踏まえた上で、色々考えたことをテキストで書いたんですが、twitterでは文字数制限があるのでブログに載せます。もともとはtwitterに連投しようと思った文章です。


肝心の問題になった記事を読むのを忘れてた。
これを読んで一読者としてすごく実感したことがある。

【お笑い評論家・ラリー遠田の「M-1グランプリ2008」評】「手数」と「スピード」の時代 NON STYLEが優勝した理由(日刊サイゾー) - livedoor ニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/3949642/


この記事に書かれているボケの数とスピードについての記述には筆者の独自の視点とか考察だとかいう主張はなく、お笑いを論じるものとしては既に共通の認識であるという前提に立っている。「基本戦略」「無視できない」「大きな流れ」「不可欠」という表現があるのはそのためで、大きく基本的で無視できないものが、芸人達やその周りにいる人たちにとって未知の特別なものであるはずがない。

もうひとついえるのは必然性という観点。
M-1総評という体裁の記事の中で、ボケの数の多さ(この視点は断じて誰か一人の気付きだとかオリジナルの視点じゃないはず)を通じて近年の漫才とノンスタイルという芸人について評すとき、どれだけボケが詰め込まれていたかを表す方法としてカウントは必然であると思う。

そして引用元として別の論者の名を表記するのはこの記事で読者に伝えたいことにとって邪魔でしかなく記事の力を失わせる。
この力というのはオリジナルの表現者である事の力という意味ではなく、お笑いの近況を伝えるという役割をもつ記事としての必要最低限のデザイン性を殺いでしまうという事。
既に共通の認識であるという大枠の中で語られている文中に「サンキュータツオ氏の研究にあるように~」だとか、最後に参考文献:サンキュータツオ「ボケの手数論」と書いても記事の体裁としてありえない。つまり引用元を記さない必然がある。

学術論文の世界では引用元の明記は常識かもしれないけど、ライターの世界は学術の世界じゃない。
そもそも文系の学問の中には、みんなが当たり前に思ってることに客観的事実から実証的な論証を試みるようなものも多いのでは。
サンキュー氏が普段紹介してる人様の論文のいくつかにもそういう突っ込みができる面白さがあった。
だとするとサンキュー氏の論にも同じ突っ込みができてしまうのではないか。つまり「手数」は皆が普通に思ってることなんだよ。で、カウントという手法は客観的事実として必然的にたどり着く手法なんだよ。

サンキュー氏の怒りは、持論を盗まれたことへの怒りじゃなくて、オリジナリティを普遍的な物へ格下げされてしまったことへの怒りなんじゃないかと。
だけど、それは芸にとってもお笑い評論にとっても、不遜な類いの感情なんじゃないだろうか。



以上が現時点での感想です。

なお、「盗まれた」と思ってしまう気持ちは感情としては理解できます。
自分が、ある対象にかけた時間や労力は、自分だけのもので、その価値は自分にとって絶対ということは他者には否定しようがない。。
だけど、そこが個人の限界であり、落とし穴でもあるように思います。

先にパッケージで論じたという先駆者としての功績は、大いに自分のものとして語ってよいと思います。
しかし、それは先駆者が私物化してよいような、そこまでオリジナリティに富んだ考察ではないだろうということです。
ましてやそれが、多くの人にとって共通の話題である大衆文化について語ってるのならなおさらです。

仮にある時点で、他の誰もがその気付きに達していなかったとして、そこに風穴を開けたあとすぐにその気付きが浸透するということは、遅かれ誰かが同じ事をしていたということです。
先に論じていたという、その早さのみがサンキュー氏の優位性であり、あとは誰もが共有できる普遍的な価値のはずです。

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2010.11.16 Comment:1 | TrackBack:0
今日の夕方6時半頃自転車を走らせてたら、もう暗いのに路上で5歳くらいの男の子が遊んでいるのに出くわした。
子供用の自転車にまたがって、つまらなそうに路上をうろうろしてるのだ。
子供らしくない遊び方なので少し不気味に思ったら、すぐにその理由がわかった。

よくみたら、子供の向こうの暗闇の中に人影が。
横を通り過ぎながら目をこらすと、色んな年齢層の奥様方が輪になって井戸端会議してた。
いったいいつから喋ってたんだろう。



先日、TBSで5夜連続の大作ドラマをやっていた。
橋田壽賀子脚本の『ジャパニーズ・アメリカンズ』という、アメリカにわたった日系人の運命を3世代にわたって追いかける壮大な物語だ。

アメリカの土地に根を下ろしアメリカ人として生きようとしながらも、日本人としての誇りを持ち続ける彼らの二重性と複雑な感情を見事に描いていた。

主人公の一家は、真珠湾攻撃で口火を切った太平洋戦争の開始と同時に田畑を取り上げられ、日系人収容所に送られることになる。
急ごしらえの簡素な小屋が並ぶ他になにもないこの世の果てのような場所を、一家を含む彼ら日系移民は持ち前のフロンティア精神で、井戸を掘り、日本庭園をつくり、畑を耕し、少しずつ住みやすくしていくのだが、
その収容所の描写でとくに印象深かったのは、掘った井戸の側で主婦達が文字通り井戸端会議してる場面。
どんな所でも、それこそ荒野の果ての強制収容所でも日本の主婦は井戸端会議を始める。
そういう描写で日本人の習性を表現してるのだと思った。

だけど、外国人の主婦はやらないのかな。

2010.11.10 Comment:0 | TrackBack:0
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