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DVDで『崖の上のポニョ』を見た。
この作品が賛否両論だったのは知っていたが、僕の意見は「賛」。
というか「否」の人のいっていることが、よくわからないところが多い。

世間の感想をプロアマ問わず見回してみると、難解だとか、子供はポカーンだとかいうけども、
このおおらかな映画にそんな堅苦しいことをいうのは、やはり宮崎駿の作品だからなのだろうか。

僕はこの作品は、大人には大人目線での見方が出来るし、子供には子供の目線で見ることが出来るという、しっかりしたつくりの映画だと思う。
この映画については、とても言いたいことがたまってるので順に書いていく。


■ 設定のあやふやさ

この映画の「わけのわからなさ」に対し、「理屈で考えちゃいけない」みたいな親切な意見もきくけど、それだって余計なおせっかいではないだろうか。
この映画に理詰めの理屈は存在するから、理屈がないといわれたら、これは大人の視点では的外れに思えるし、
そんな理屈を無視しても楽しめる漫画映画なっているから、子供にそんな忠告は不必要なはずだ。

否定派の意見を拾うと、大方の否定意見の根底には、作品世界の設定のあいまいさに居心地の悪さを感じている部分が大きいようだ。
そのことに関しては、序盤まではたしかに僕も同じ不安感を持った。

たとえば最近家で金魚を飼ってる僕は、淡水魚の金魚が海にいることや、カルキの入った水道水にポニョを浸したら元気になる描写が気になった。
だけど、すぐにそこは気にしちゃいけないのだとわかるようになっている。
「こういう映画ですよ」という断り書きのようなメッセージがあちこちにあるからだ。
(この「水」に関しては大人の視点として僕なりの考察もあるので後述する。)

決定的なのは「人面魚じゃないか、気持ちわるい」という老女トキさんの言葉。
ここでこのポニョという生物のデザインが、擬人化された金魚を視覚効果によって翻訳したものではなく、見た目どおり、こういうものがこういうものとして存在し、人々に普通に受け容れられる世界として描かれているんだなという「スタンスの説明」は済んでる。
「こういう絵本」だと思えば、とくに疑問をもつ必要性は感じない。
手書きアニメにこだわった画面からして「動く絵本」の体裁なのだから。


■ 映画のテーマと理屈

ストーリーの細部の怪しさをあげて、理詰めの部分で
宮崎駿の衰えを気にしている人もいるようだけど、それはいささか早とちりだ。
この映画を作ったのは腐っても鯛。老いても宮崎駿だ。

たしかにやや難解な部分はあるかもしれない。要所要所で説明不足なところがあるのだ。
しかし、そこまで難解というほどの謎賭けでもない。
僕はこの映画を三回見たが、そうすることでいくつかの疑問もわかるようになっている。
この程度の謎は映画としてはちょうど良い配合に思える。

だから、プロの映画評論家でこの作品を「難解」だとか「ナンセンス」だといってしまった人は、
必要な情報を正しく読み込めていないだけで、これは、なにかしらの先入観にやられてしまってるからだと思える。
それは例えば「宮崎駿」というブランドの持つ重みかもしれない。
この大作家には、今後どんなものを作ったにしろ、「宮崎駿の作品としては」という冠詞がつくので、
プロ批評家にして、宮崎駿が衰えたと判断するだけの(僕はおおいに反対意見だが)異質な作品だったとは言うことが出来る。

僕はこの批評家のファンなので、ここでは名前は出さないけれど、
ファンなだけに、なんでわかってくれないんだという腹立ちもある。
この人がツッコミを入れてた部分を少し挙げると、
彼は、リサが宗介を乗せたままの車で危険を冒して家に帰った理由が一切ないという。
また、宗介とポニョという幼児を二人だけ残し老人ホームへ様子を見に行ってしまうのも親失格だという。

まずリサが危険を冒して家に帰った理由だが、これは高台にある家に灯をともし、灯台となるためだ。
もうちょっというと、この映画のテーマは「愛」。
本当に気恥ずかしくなるくらいの「愛の映画」なのだ。
だからリサの理不尽な行動も「愛」で読み解くことが出来る。

愛は一筋縄ではいかない、ときには理不尽なものではないのか。
息子の宗介を危険に晒してまで高台に上ったのは、リサの愛の行動であり、
その愛は老人ホームにいる老人たちにも等しく向いているもので、また暗闇の中にいる全ての人に向けてのものでもある。
そして、ここが大事なのだが、この「愛」は主に配偶者、つまり海の上にいる夫に向けられているのだ。
ハッキリ書いてしまうと、リサの母性愛は、人類愛や、旦那への情愛に勝るものではないのだ。
母は身を挺して子を守るものという、母の鑑のような母親像を宮崎駿はこの映画であえて否定してる。

なぜそんなことをするのか。
それは、この映画が子供たちを祝福するための映画だからだ。
この「祝福」というキーワードは、映画を見ている間しきりに感じていたのだが、
スクラップしてあった映画公開当時の1年前の新聞記事をみたら、(僕はアニメ関連の新聞記事は電子スクラップしてます)インタビューの中で宮崎駿自身が「この世に生まれてきたすべての子を祝福してあげたい」とはっきり発言しているので、これが頭に残っていたようだ。
そもそもこの映画のキャッチコピーは「生まれてきてよかった」ではないか。

この世の全ての子供が、母親に強く愛されてるだろうか。
答えは否だ。
いってしまえばそんな子達は、すでに祝福されているのだから、この映画でとりたてて祝福してあげる必要はないのだ。
親のない子だっている。複雑な家庭に育った子供だっている。

映画の中の宗介は、子供に親を呼び捨てするようにしつける特殊な家庭で育ち、
このリサという母親は未熟さを残した若い親なのだ。
だから自信家すぎて社会性のある行動が取れない傲慢さがあるし、うかつさもある。

自分のことがまだまだ一番大事だから、夫とのつながりが子の安全に勝る。
そんな親のもとに生まれた子達にも、等しくメッセージが伝わるように仕掛けられている映画だからこそ、このいいかげんな母親なのだ。


■ 親の愛と子の生命力

一方、ポニョも特殊な家に育った子供だ。
ポニョの父であるフジモトは、人間世界に愛想を尽かし魔法使いになった元人間だ。
そんなフジモトは人間の水は汚れた水だとして、ポニョと妹たちを綺麗な水に住まわせ、綺麗なエサしか与えない。
宗介とは違って、父親の愛が深すぎて、娘のポニョはそれに縛られている。
冒頭でポニョが家を出て広い海を見に出かけたのは、この父親の定めた世界から逃れるためだ。

しかしポニョは、そんな親の心配をよそにスクスクと育っていく。
ここで、先程の「水」の解釈の話をするが、僕はカルキの入った水道水は人間の世俗の汚れを意味してると思う。
その証拠に、フジモトは人間の生活圏の港の海水を汚れとして忌み嫌い、陸に上がってからも背中に取り付けた「綺麗な水」をシャワーにして注ぎながらその上を歩いてくる。

だからこの映画での「水道水」はフジモトの「綺麗な水」に対するアンチテーゼとして、わざとああいう描かれ方をしていると考えたほうが自然ではないだろうか。
これはポニョの好物の「ハム」と、フジモトの与える「綺麗なエサ」との対比と同じ構造だ。

カルキの入った水に魚を入れると、魚が死んでしまうことを我々大人は知っている。
だが、ポニョはそんな水に入っても元気で泳ぎ回るのだ。
これこそ宮崎駿がこのシーンに込めたメッセージであり、それは子供に向けてというより、我々大人に向けてのものに思える。

「ポニョ手欲しい、足欲しい」
一度は生えた手と足は、フジモトの「モドモド」という元に戻る呪文で元に戻されてしまう。
ドーピングまでしてポニョの手足を押さえ込んだフジモトだったが、
一度宗介の血を舐めてしまったポニョには外の世界へ行きたい、宗介に会いたいという熱望は抑えられない。

やがてポニョは「生命の水」を体内に取り込み、フジモトが押し込めた水槽の中からはじけるような生命力で飛び出す。
妹たちも元気にそれを応援する。
そしてポニョは本懐を遂げ崖の上で宗介にむぎゅーっと抱きつくのだ。
ポニョが父親の庇護する世界の住人から「崖の上のポニョ」になった瞬間だ。

ここがこの映画のクライマックスだが、物語はここで終わらない。

「ここで終わっていたほうが良かった」
「本来短編映画向きの内容を長編用に引き伸ばした」
という意見があるが、これも大間違いだ。

宮崎映画のクライマックスは中盤にやってくるというセオリーどおりで、
見せ場が終わったあとの物語の後半にもちゃんと意味がある。
そもそもこの物語はアンデルセンの『人魚姫』をベースにしており、
この『人魚姫』の悲劇を否定するところに主眼が置かれているといっても過言ではない。
ポニョが脱走するだけでなく、人間の世界から多くを学び、試練を乗り越えて、最後に幸せにならなければ、この映画を作る意味がない。

(余談だけど昔、桂正和の『電影少女』という漫画があってこれも同じ題材を扱っています。この漫画のラストに大泣きしてしまったので、こういう作品に弱いのかもしれない。)


最後に宗介はポニョとの約束を守り、ポニョは泡となる危険を侵し人間へと転生する。
ポニョの母であるグランマンマーレが宗介に提示した問いかけは、ポニョの存在をかけたもので、
これは泡になるか否かという「存在」だけの意味だけではない。
ポニョがこの世に存在するには、この世に肯定され、祝福されなければいけないという強いメッセージが込められている。

「魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョもみんな好き」
そして宗介はあっさりポニョの存在を全肯定し、ポニョをこの世に祝福するのだ。
完璧な「愛」の形である「相思相愛」になった5歳の二人は互いを祝福している。
世界はついに彼らを受け容れた。


■ 他の映画との関連

ちょっと話が飛ぶが、この映画を見ながら思い出した作品が三つある。

M・ナイト・シャマランの『ヴィレッジ』。
ミミ・レダーの『ディープ・インパクト』。
庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』。

※『ヴィレッジ』と『エヴァンゲリオン』に関してはネタバレを言うので未見の方はご注意。

『ヴィレッジ』では、
心に傷を負った大人たちが子供たちに醜い世界を見せたくなくて、
俗世と隔絶された世界を作り上げていた。
しかし、二世の世代は親たちのこの親切な世界の枠に収まりきらず、若い情熱で外の世界に飛び出していく。

『ディープ・インパクト』では、
終末を迎えた人々の様々な最後の日の過ごし方が多面的に描かれた。
なんとしても生き延びようとする者たちがいる一方で、
シェルターに入れなかった人々は死を受けいれ、その日を大事に過ごす。

『エヴァンゲリオン』の監督、庵野秀明は、宮崎駿の弟子筋に当たる人物だ。
エヴァンゲリオンでは、謎の生命体「使徒」が最初の人類であるリリスに向かい有無を言わさぬ突進力で進行してくる。
その進行を止める手立ては並大抵のことではない。
巨大な権力を使って秘密組織を操る老人たちが進める「人類補完計画」は、すべての人類が溶け合って一緒になり、欠けた心を補完するというものだった。


こう書くと『ポニョ』の中にそれぞれの作品のシーンがかぶらないだろうか。

とくに宮崎駿と関係の深い庵野秀明のエヴァンゲリオンは、多くの人から類似性を指摘されているようだ。
これは『ポニョ』の世界の破滅がポニョの運命進退とリンクしている「セカイ系」のカタチになっていることからも容易に想像がつく、なにせ「セカイ系」という言葉は『エヴァンゲリオン』から生まれたといわれてるのだ。

『崖の上のポニョ』では、ヒロインポニョだけに限らず、登場人物のスキンシップの描写が多い。
ポニョは宗介にムギューッと抱きつくし、ボートの上で出会った赤ん坊にムギューッとキスをし、鼻水が糸をひきヨダレもベトベトになる。
これは人類補完計画の液体となって交じり合う人間たちの姿を連想させる。
はっきりいってどちらも「セックス」の暗喩だ。

庵野秀明はエヴァというエンターテインメントの形を取って、自身の私小説を描いたといえる。
庵野自身がのちにエヴァ制作時の生活を語っていたが、それは引きこもりたい気持ちと、人と触れ合いたいという相反する気持ちの中で葛藤するという、作品の中の人物そのものとリンクしているかのようなもので、そんな精神状態の中でエヴァは作られた。

宮崎駿はエヴァのヒット当時に、エヴァを見ていないと語っているが、その後もそうだったのだろうか?
可愛がっている弟子であり、めったに人を褒めない宮崎駿が才能を認めた人物である庵野秀明の代表作を見ていないわけはないし、むしろ手塚治虫と同じで後輩にも分け隔てなく嫉妬を抱く競争心の強い宮崎駿は、庵野秀明の作品に動揺したのではないか。
まったくの想像だけど、宮崎は(意識的にしろ無意識にしろ)庵野秀明の作品を受け取って、返球した、
それがポニョだったのではないかとすら思える。

『エヴァ』ではTVシリーズ最終2話にあたる劇場版で、主人公の絶望的なまでの逃避と、
一部の人間のエゴによって皆が赤い海となってしまった人類の終末が描かれる。
「人類補完計画」は遂行され、それは同時に救いのない世界とそこに住む人間の救いのなさを強調していた。

赤い海のほとりで、新しい世界のアダムとイブになったシンジとアスカ。

「気持ち悪い」

ラストにシンジは、アスカに全否定されて映画の幕が下りる。

宮崎駿はこの救いようのない『エヴァ』に球を打ち返したように思えるのだ。
「俺ならこう作るぞ」と。

そう考えると映画前半でのトキさんの
「人面魚じゃないか、気持ちわるい」というポニョを否定する言葉は、
ラストのための前フリというだけでなく、エヴァのラストのアスカのセリフとリンクしているかのようだ。

だからこそ宗介は「すき」とまっすぐな好意をぶつけてくるポニョを全肯定するのではないか。
『ポニョ』のラストシーンはポニョと宗介のキスで終わる。
二人は空中で見つめあい、見詰め合った形のまま画面が円形に閉じていき、そしてエンディングテーマが流れる。

この映画の制作に関わったすべての人たちの名前が次々に現れ、
その画面に流れるのはたどたどしい少女と間の抜けたおじさんたちの、なんとも気の抜けた素朴な歌唱。
「パークパクチュッギュッ」
チュッとしてギュッとすれば、みんな交じり合える。
これが宮崎駿なりの「人類補完計画」なんじゃないだろうか。

新世界のアダムとイヴの物語がここから始まり、ふたりの周りの人々、それに物語を見た観客たちの人生だって変わるかもしれない。
少なくともそういうメッセージが込められてる。


僕はエンディングを見ながら泣きました。
師匠の貫禄勝ちです。


ただし、ご存知庵野秀明は、現在4部作となる予定の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を展開中で、自らの作品を新解釈で作り変えています。
僕も先日2作目となる「破」を見てきましたが、一作目の「序」はやはり序盤の助走で、「破」から大きく物語が作りかえられます。
とくに大事なのは、元の『新世紀エヴァンゲリオン』で悲劇的な運命をだどる登場人物が何人か救済されていることです。
なかでも綾波レイの扱いには、ネガティブだった旧作の否定の意思が感じられ、
結婚して幸せになった庵野監督自らの、過去の自分への返球なのではないかと思えます。

そういえば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の企画のきっかけとなったという、新訳『Ζガンダム』劇場版三部作(2005年~2006年)ですが、監督は庵野秀明の作風に濃い影響を与えた富野由悠季です。
富野監督も、悲劇的な結末を迎える旧作の『Ζガンダム』のラストを、新訳劇場版では自らの心境の変化から大きく偏向しています。
新しく作り変えられたΖガンダムの世界では、主人公カミーユはガールフレンドのファと抱き合って宇宙遊泳をして終幕となります。それはセックスを暗示させる露骨なポーズの抱擁でした。

庵野秀明につながるこの二人の巨匠の作品に垣間見える「抱擁」というキーワード。
そして庵野秀明が自ら作り変えたポジティブなエヴァンゲリオンは、見えない師弟の鎖でつながっているような気がします。


■ 宮崎駿の「死の匂い」

ところで、冒頭で宮崎駿が衰えたという意見を紹介しましたが、繰り返しになるけどこれは正確ではない。
年齢と共に創作のステージが変わっただけなのだ。
『ポニョ』という作品自体には「衰え」と呼ぶべきものはないと断言できる。
しかし、衰えのほかに、この映画に感じる「死の匂い」に言及してる人も多く、これには頷くところも多い。
僕は初見を見終えて、これは宮崎駿の遺言だと思った。

実際に最近の宮崎は、周囲に「死」の準備をよく語っているらしいけども、その心境がこの映画には如実に出ている。
スタンスとしてこの映画は「子供たちへの置き土産」であると同時に、
宮崎がこれまでの人生、とくに幼いころのよき思い出を振り返る「走馬灯」になっている。
怪しい映像世界で宮崎自身の深層心理を描くのは、子供を祝福すると同時に、死の床で自分自身を祝福したかったのではないかと思える。
これでは今死んでもおかしくない勢いだ。

しかし、まだ猛烈なエネルギーを隠し持ってるおじさんなので、騙されてはいけない。
これは近年の宮崎駿の気に入ってる死ぬ死ぬ詐欺なのだ。
次回作ももう作り始めてるようだし、実際にはまだ当分ピンピンしてるだろうけど、
もしポニョの完成直後に死んだりすることがあれば、これは確実に宮崎駿の遺作というだけでなく、
遺言として扱われるだろうなと。そういう感触を得た。
そういう意味では「死」のにおいのする映画という解釈は間違っていないので、危ない匂いの漂う問題作だとはいえる。



最後に。
僕はひねくれものなので、宮崎駿がアニメ界の大家になってしまった最近はあまり食指が動かず、
具体的には『もののけ姫』以降見てない。
いや『ハウル』はテレビで見たかな。
ともかく、ジブリ映画はほとんど見る気がなかったのだけど、先日映画好きの友人がジブリ鑑賞会をやろうと言い出し、予習する羽目になってしまった。
結局『千と千尋の神隠し』と『ポニョ』の二作を観たのだけど、どちらも素晴らしかった。
ベルリン国際映画祭金熊賞を獲った『千』ももちろん気に入ったのだけど、僕が感動したのは『ポニョ』でした。
半ば強制で見ることになったけども、この『ポニョ』に関しては観る機会を与えてくれた友人に感謝したい。
とてもいい映画に出会えて幸せです。

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2009.07.29 Comment:0 | TrackBack:0
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