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普段からTV情報には疎いものだから、
新聞のTV欄の番組宣伝広告に「木枯らし紋次郎」の文字を見つけて驚いた。
リメイクが作られてることをまったく知らなかった。

紋次郎番宣CM

幸いなんの先入観もない状態だったわけだけども、
この番組宣伝用のスチールを見たとき、江口洋介だと気づかなかった。
それはこの写真があまりに紋次郎らしかったからだ。


これは見なければならない・・・!
しかしこの日、僕は紋次郎を見なかった。
後日見ることになるわけだけども、それには理由がある。

この番組が放送される日は金曜日。
1月から始まった『必殺仕事人2009』の裏番組なのだ。
・・・これは 絶対わざとぶつけてきたに違いない。


紋次郎vs必殺
   ↑5月1日の新聞TV欄

1972年9月に始まった必殺シリーズの第一作『必殺仕掛人』は、
当時人気絶頂だったフジテレビの中村敦夫主演の『木枯らし紋次郎』に対抗するべく企画されたもので、
朝日放送(当時のTBS系列)は、土曜の22:30分から始まる紋次郎よりも30分早い22:00に『必殺仕掛け人』をぶつけてきた。

結果、紋次郎の前に必殺を見た当時の視聴者は、そのピカレスクで刺激的な内容に魅了され、22:30分になっても紋次郎にチャンネルを合わせなかったのだろう。
ビデオなどない時代だ。
結果、紋次郎は撃沈されてしまう。

それほど『必殺仕掛人』は素晴らしい作品だったからだし、僕も仕掛人の大ファンだから、
この結果には納得するところが大きい。

すでに第2シリーズに入っていた木枯らし紋次郎が世間に飽きられていたという以前に、このふたつを比べてしまうと、
鮮烈で刺激に満ちた必殺と、地味にハードボイルドな紋次郎では、どうしても紋次郎には分が悪いと思う。
だからといって、紋次郎の価値が必殺に劣るかといえば決してそうではない。
紋次郎の寡黙さの中に彼の魅力があるように、脚本演出含め地味なところにこそ『木枯らし紋次郎』という作品の最大の良さがあるからだ。

あれから36年。
紋次郎と必殺が再び裏番組として激突するというのだから興奮する。




さて、現在では当時と違いビデオというものがあるので、
どちらかをビデオ録画して両方見ることが出来る。
36年前のように、片方を切り捨てなくてすむのだからありがたいことだ。

どちらを見るか迷ったが、どちらを録るかという観点で考えたら簡単だった。

というわけで、当日は『必殺仕事人2009』を見て、
あとからビデオで紋次郎を見たわけです。


対決の結果は・・・今回に限っては僕の判定は圧倒的に紋次郎です。

僕は『必殺仕事人2009』も素晴らしい作品だと思ってるのですが、今回に限っては
(「武士の異常愛」の回)、おざなりで雑な筋書きでシリーズを通してもレベルの低い回だったと思います。

そして紋次郎ですが・・・・

素晴らしい。
ほんとに素晴らしい。
ネットの感想をみると、主演の江口洋介の出来具合も含めて、賛否両論のようですが、
これは、このリメイクへの期待値も大きく影響してるのではないだろうか。
僕はなんというか・・・ほとんど期待してませんでした。
これは『必殺仕事人2009』にまったく期待してなかったのと同じで、
その反動で当たり前のことを当たり前にやっているだけで、素晴らしく映るのかもしれません。
でも、その「当たり前のこと」をやるのが難しいんですよ。

今回の紋次郎は、なんといっても、1972年のオリジナルにたしかにあったものがたくさん再現されてました。
一番大事なところは「貧しさ」です。
貧しさゆえに生き方を方向付けられ、その運命から逃れられないものたちの悲劇。
そんな悲しい空気が作品全体を覆っている。

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ドラマ:「21世紀版」木枯し紋次郎、江口洋介主演で復活--5月1日、フジテレビ系 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20090423dde012200071000c.html

 学園紛争の余燼(よじん)が漂う72年は、反体制、はぐれ者、一匹オオカミ、孤高の人といった紋次郎像に支持が集まったが、09年はどうか。江口が語る。「今の世の中、孤独な人が多い。紋次郎も孤独でかかわり合いを持たないように生きているが、人間、自分の人生を歩いていると必ず事件に遭遇する。孤独で困っている人を見ると、孤独な人ゆえに余計助けようという気が起きるのではないか。そんな時代性を感じる」

 中村も今日的意義を説く。「紋次郎は間引き、つまり社会に最初から参加するのを拒否されかけた人間。格差社会の今も最初から参加できない若い人がいる。極めて現代的なドラマだと思う」


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このあたりを読むと、今回の紋次郎はたしかに、時代に迎合して新しいものを作っているように思える。
しかし、これは単に紋次郎の世界が現代に似た共鳴を起こしているだけの話で、そっけない言い方をすると単なる偶然にすぎない。
一億総中流の夢があり、終身雇用の社会が磐石のものと信じられていた時代に作られたオリジナルの紋次郎の中に、これらの要素はすべてあったのだから。

一方『仕事人2009』のほうは、完全に現代にあわせてます。
しかし、これは時代に迎合しているというよりは、「必殺」が最初から持っていた要素、
すなわち「時代を反映させる」「むしろ現代劇」という遺伝子を受け継いでるだけの話で、スタイルとしてはやはり過去作に敬意を払った忠実なリメイクなのです。

両方、オリジナルの匂いを損なうことなく、長い時間を経て色あせずに復活してきたことがすごいと思うんです。
そして、裏番組として激突ですよ。
なんて粋なんでしょう。



■キャスト
さてここから、もうちょっと具体的に感想をいいますが、
まず主演の江口洋介。

僕は彼でよかったと思います。
中村敦夫のオリジナルに心酔している人には不評のようですが、なにかに惚れた人というのは同時に目が曇っているものです。これは心酔することの副作用でどうしようもない。
ということは、僕はそこまで熱く語るほうではないライトファンなのかもしれない。
江口は中村の雰囲気をよく出してるとすら思います。
若干輪郭が丸くえらが張ってるのがオリジナルのイメージを削ぎますが、
全体的な雰囲気は救命病棟24時での新藤先生のときの色気に年齢的な深みが加わった感じで、
紋次郎の役を演じるうえでのオーラは十分にでていると思います。
江口の場合、顔の下半分が特にいい。
紋次郎のトレードマークである長楊枝をくわえた口がもう紋次郎です。
上に載せた番宣写真を見て違和感がなかったのはそのせい。

若干「目が綺麗」なのが、かわいい感じになっちゃって、目を大写しにすると危ないときがありますが、
紋次郎はほとんど編み笠をかぶってるので、顔の下半分のよさを考えたら大満足。
それに目がきれいだっていいじゃないですか。これは江口版の紋次郎なんですから。
他にも江口紋次郎は声が軽いかなと思ってましたが。
実際、出だしはそういう不安なところが多かったはずなのに、番組をのめりこんで見てるうちにそんなことは忘れ、終わる頃には、紋次郎は彼しかいない。
紋次郎がそこにいる!と、なんの疑問もなくそう思っていました。

小判鮫の金蔵を演じる小澤征悦や、ストーカー気味のヤクザ渡辺いっけい、
表と裏のある悪女の演技を(二層がちゃんと重なるように)見事に演じわけた若村麻由美もとてもよかった。


■演出
演出も良かった。
とりたてて、どこがどうとはいえないんですが、
たとえば必殺のように、鮮やかな光と影のコントラストや、仰天のアングル。テンポいいカット割り。
盛り上がるBGM。

こういった、血が沸騰するような要素は、紋次郎には必要ありません。
むしろあっちゃいけない。
紋次郎は地味であり、地味の中にこそよさがある。
2時間という時間を飽きることなく最後までみたのは、脚本のせいもありますが、
縁の下の力持ちとして緊張感を途切れさせなかった地味な演出のあったおかげだと思います。

存在しない世界を存在するものとして紡ぎだし、存在しない人物を存在するかのようにみせかけ、
なおかつ画面の中で決して緊張が途切れない。

ビデオを巻き戻して見ると、細やかなところで、細やかな演出をしてるのがわかる。
ほんとうに地味な要素の集積なので、どこがどうとはいえない。
ただそういう地味で当たり前の演出技術で作品を盛り上げることこそ真に難しい芸なのではないだろうか。
紋次郎をTVに送り出した市川昆は亡くなりましたが、時代劇の演出家はまだまだ層が厚い。

そういや地味地味といいつつ、
ひとつ、演出的に強烈なシーンがあった。
それはラストシーンの紋次郎の顔越しに、ヤクザの源之助が、商家の後添いお市を惨殺するシーン。

紋次郎は、関係ないフリをして、いつでも正確にものごとを観察している。
しかし、ラストのシーンで、紋次郎はお市への凶行を傍観どころか見もしなかった。
ここで大事なのは、彼が”本当は見ている”ということ。
見ているけども、手は出さない傍観者に徹したということだ。
傍観しようとして手を出さずにおけないのが紋次郎。
この場面で紋次郎が手を出さなかったのは、明らかに彼の強い意思による”行動”なのだといえる。

この手を出さない紋次郎の顔を大写しにして、カメラがぐるりと回転して「絶叫」や刀を振り回す様子の一部分などをはさんで、背後の情報を小出しにするという演出は、
この紋次郎のキャラクターを最後に最大限まで表現したと思う。
終わりよければ全てヨシとはいうが、全部良かったうえに、最後まで本当に素晴らしかった。


■ストーリー

脚本良かったです。
紋次郎の世界を・・・貧しさに翻弄される人々を配置することで、
天保の大飢饉があった時代の、どうしようもなく無常ではかない世界観をつくりあげていた。

特によかったのは、そのような貧しさと真逆にあるポジションの悪女、お市。
当初こいつが大ボスだとはまったく気づかなかった。

そのヒントが視聴者にようやく明かされるのは、ともさかりえ演じるかけおちした商家の娘おまんのセリフ。
「あのひとは自分の思い通りにしなければ気がすまないんです」
このセリフをきいても、そこまでの経緯ではとてもそういう筋書きには見えなかったんで、
紋次郎と同じく、見ているこっちもなにかの勘違いではと思ってしまう。

でも、よく考えてみたら、人間への強い評価というのは簡単には見過ごせない大事なことだ。
当事者にしかわからない事情があるはず。
時間が随分経っていて、当時と事情も変わってるので、あの頃とは考えが変わったのかもという筋道も考えられるが、
これも”人間は簡単には変わらない”という現実のほうが重くのしかかってくる。

これらの疑問は、最悪の展開で裏付けられるが、同時に胸のつかえがすっととれるようだった。
当初のお市が発する、誤読を誘うようなセリフも含めて、キャラクターが見事に一貫されているからだ。
そしてキャラクターというのは、その人物がどういう人生を歩んできたかということと密接な関係がある。

この作品に登場したキャラクターたちは、誰も彼も”生まれ”に支配されている。
これがこの作品のテーマで、それをきっちり描いたところがこの脚本の最大の功績だと思う。


この悪女お市のキャラクターは、彼女と共謀した男、小判鮫の金蔵の人生と対比されるように対になっている。


金蔵は貧農の出身で、6人兄弟の5番目に生まれた。
畑は継げず、兄の家で奴隷のようにこきつかわれる運命。
その運命から逃れるために彼は渡世人になった。


一方お市は、総名主の娘でそれをプライドにして生きてきた。
総名主の娘として生まれたことが彼女の人生を決定付け縛っている。
彼女の欲望が尽きることはない。彼女は欲したものはなんでも手に入れてきたのだから。

このふたりは共謀して、互いの為に交換殺人のような取引をしているのだが、
それもこれも彼らの生まれのせいで、それはまったく真逆の人生で、真逆の欲望。
そしてその真逆な二人の目的が奇妙な一致をしているのが悲しい。



そして第三の男が紋次郎だ。
紋次郎はいつでも第三者だ。
主役でありながら、物語の真ん中には身を置かない狂言回しのような位置にいる。
それが彼のキャラクターだからだ。
「あっしには関わりのねえこって」といいつつ、心の内に秘めた「関わりたい」という欲望がいつも彼を人に寄せ付け、結果事件に巻き込まれてしまう。

貧しさゆえに悪の道に手を染めた男金蔵は、裕福ゆえに悪女となったお市と対照的に描かれているだけでなく、もうひとつのラインでは紋次郎と対比されている。
ある意味で金蔵は紋次郎の写し身で、もうひとりの紋次郎だ。

金蔵は貧しさから逃れるために渡世の道に入ったというが、
紋次郎は「気づいたらなっていた」という。

この二人のセリフは、ふたりの世界に対する認識が反映されているように思う。
つまり、そうなる以外に道がなかったから無宿渡世になるしかなかったところまでは同じだけども、
そこから先への人生の展望への考え方がまるで違うのだ。
ある意味、自分の運命と戦おうとしたのが金蔵で、運命から逃げ続けているのが紋次郎ではないのか。
この時代、このような人別帳にも載っていない人間が、これまでのすべてを清算するには、悪に手を染めるしかなかった。これは許されるべきことではないがモラルさえとっぱらってしまえば、ひとつの道理だ。

紋次郎は、死の間際の金蔵に「のたれ死ぬ」といわれたが、「そのときは死ぬだけで」とあっさり答え、死や運命を受け容れてるかにみえる。
しかし、本当にそうだろうか。
これは、『木枯らし紋次郎』が最初に創作されたときからのキャラクターとしての根幹の部分に思うが、
彼はなぜ根を下ろしたがった金像と逆に、一宿一飯程度の滞在しかせず、旅を続けるのか。
原作も読んだことはなく、オリジナルの紋次郎も再放送でまばらにしか見たことはないので、
間違っているかもしれないが、僕の解釈はこうだ。

彼は希望を捨てていない。

一家は離散し、行く当てもなくただその日を生き、旅をする彼は、
自分を殺そうとしたこんにゃくが食べられないように、自分の生まれを呪っているし、
貧しさも呪っている。その象徴である上州新田群は彼の故郷であると同時に一番呪っている場所でもある。
しかしこの世のすべてまでは呪っていないのではないか。
自分を救ってくれた姉は死んだけれども、それと同じ救いがどこかにあるのではないか。

生まれてまもなく間引きされて死ぬ運命のところを、姉の機転で助けられた紋次郎は、
世界に捨てられるギリギリのところで、祝福され世界に受け容れられたといえる。
この成功体験が、無宿渡世の道に追いやられてなお、彼が世界に絶望していない原動力になっているのではないだろうか。
さらに彼と同じように間引きされた多くの子供たちと違って、紋次郎がこの世に生まれ育ったのはなにか意味があるはずだと、彼はこう思ってるのではないのか。

だから彼はあてのない「希望」に向かって歩みを進めているように思える。
この解釈は、主題歌『だれかが風の中で』の歌いだし「どこかで誰かが きっと待っていてくれる」から喚起されたイメージを基にしているのだけど、
虚無の表情は見せ掛けで、胸のうちはウェットなのが紋次郎の魅力であることだけは少なくとも間違いない。
であれば、彼の旅の理由もおのずと虚無とは真逆の位置にあるものだといわざるを得ない。

上のほうで、現代を反映しているのは偶然の一致だみたいなことを書いておいてなんだけど、
こう考えていったら、この脚本での今回の金蔵と紋次郎の対比は、そういった現代にも通じる「希望格差」を意識的に描いているといえなくもないのかな。




最後に、続編希望です。
必殺もパイロットにあたる『仕事人2007』から二年越しでTVシリーズとして復活しましたが、
紋次郎もこのすんばらしい出来なのだから、次を期待してます。
今回の視聴率次第なんだろうけど、ぜひ江口版をテレビシリーズで見てみたい。



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2009.05.04 Comment:0 | TrackBack:0
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