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『ウルトラマンギンガ』は田舎の片隅だけで闘う箱庭的コンセプトに面白みを感じるものの、やはりタルいなーと思いながらビジュアルのかっこよさでなんとか見てたのだけど。
まさかジャンキラーが仲間になるとは思ってなかった。
という驚きも相まってこのジャンナインが誕生する5~6話はよかった。

この回の脚本の担当は赤星政尚さん。
今回のジャンナイン誕生譚は、『ウルトラマンメビウス』の第11話(脚本:赤星政尚)において、悪役のハンターナイトツルギが、改心すると共に改名してウルトラマンヒカリとなったのと同じ構造だ。

やはり赤星政尚脚本には愛と緊張感がある。
『ウルトラマンギンガ』は「夢」がテーマ。
活動範囲の狭いミニマムなヒーローらしく、目の前の一人を救うという構図が小市民的で同時に負けられない理由に説得力がある。

第6話で夢を持つことの大事さを知ってもらう為だけに発動したギンガの力はもはや町内会のおせっかい親父。
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2013.09.05 Comment:0 | TrackBack:0
去年録画したものをようやく見終わった。
はっきりいって、たいした話ではない。
見返す価値もない。

しかし見終わってみると、この録画を消してしまうのが惜しい気がする。
なんでかというと、名護啓介が魅力的だからだ。
この作品はもうそれに尽きる。

名護啓介は、嫌味な男を魅力的に書かせたら世界一の脚本家、井上敏樹の数十年のプロ生活で身に着けた技巧が詰まったようなキャラクター。
だからといって、キャラに情念や愛情こもってるとか、そういったことは感じない。

過去と現在が同時進行でクロスする物語という新しい挑戦のほうにエネルギーを使っていたためか、
むしろメインの物語の蚊帳の外にいた名護啓介の描写には、おざなりなルーチンワークの手触りを感じる。
バウンティハンターの設定や、ボタンを集めてるとことか、親父との確執のあたりは完全に設定先行のとりあえずな布石で、全然回収できてないし。
物語を盛り上げる方向としては失敗だらけ。

しかしそんなだらけた脚本なのに、一番大事なとこは外してない。
名護が出ているとき、画面には華があるのだ。

井上敏樹はもう、自動書記で書いてるね。
完全に自分のフィールドで、自分の得意技を、鍛錬で鍛えぬいた脳みそで正確に結果をアウトプットする。

名護啓介のキャラ付けや、それを表した行動には、そういう匠の熟練した技の心地良さを感じる。


井上の作ったイヤミキャラは、イケメンの本来持ってる素質を引き出す力があると思う。
この役をやってるのは加藤慶祐さんというんですか?
名護になりきっているときの彼は本当に輝いていると思う。
元が素晴らしいのもあるけど、彼の憂いのある魅力を引き出したのはやはり名護のキャラクターだ。



反面、この作品のもう一人のイヤミキャラ。
紅音也のほうはちょっとスベってるように感じた。
ナルシストという意味では名護と同じなのだけど、名護のほうは弱さとそれに裏打ちされた人間味を描けている。

紅音也の位置づけは重要だっただけに、その重要なポストにふさわしいキャラではなかったように思う。
彼のワガママな行動を説明するための「本当に自由な人」というキャラ付けも説得力に欠けた。
キバの登場キャラクターたちには全体的に自動書記な感覚が漂ってるので、
そういう意味では、ナルシストキャラの新パターンであり、新しい挑戦でもあった紅音也よりも、得意技を凝縮させた名護啓介のほうが上手く仕上がってるのは当然といえる。

2009.10.22 Comment:0 | TrackBack:0

21・22・23話
今回のウルトラマンの特徴はいくつかあるが、
その中でも主人公をウルトラマンでなく、隊員に設定したことに付属してもうひとつ大事な点が。

地球防衛軍に相当するTLTは強い。
ウルトラマンとTLTの戦力は同等なのではと思えるくらい、対ビースト戦においてTLTの担う役割は大きい。
昭和の旧ウルトラマンシリーズでは、科学特捜隊からの伝統で、「防衛軍」は怪獣に破壊されるためのかませ犬として「脱出!」するために存在するような頼りない組織。
ウルトラマンの強さを強調するためのダシでしかなかったわけだ。

TLTはもともと単独でビーストをかろうじて殲滅する程度には強かった。
それが溝呂木の登場でビーストは強さを増した。
そこそこ強いウルトラマンネクサスが補佐してかろうじて勝利を収める程度に、「ビースト&溝呂木」VS「ネクサス&TLT」の戦力は拮抗している。
このバランスが緊張感があって心地よい。
孤門と姫矢が共闘して、ひとつの大事を成し遂げるという構成にも一役買っている。

21話では、姫矢はTLTに捕まって観測実験されてしまう。
心臓が止まるあたりは大ヒットしたアメリカの連続ドラマ「24」の影響ちゃうんかと思ったけど、それは置いておいて、
姫矢を解析した結果、TLTはネクサスの光線と同等の破壊力をもつウルティメイト・バニッシャーを開発する。
もともとが強い上に、さらにはウルトラマンの必殺光線と同等の力を所有してしまう組織というのは前例がないのでは。

24話「英雄-ヒーロー-」
この設定が、姫矢編クライマックスの24話でも十二分に生かされている点がいい。
ネクサスの手を一切借りず、ウルティメイト・バニッシャーでビーストを殲滅するTLT。
しかし溝呂木の変身したダークメフイストはあまりに強い。

そこで、破壊光線であるウルティメイト・バニッシャーを、光を失ったウルトラマンのエネルギーに転用する展開にもっていくのだが、脚本がうまい。
イラストレーターのキャラも立ちまくりだ。

エナジーコア(カラーライマー)を寸分も外さずに撃たねばならないという過酷な状況が、姫矢と孤門の紡いできた信頼関係の最終段階に位置する試練だというのも、伏線の消化としては綺麗だ。
さらには、この展開は、「光は絆だ」というキーワードにも合致している。
ウルティメイト・バニッシャーはウルトラマンの光の力を科学的に解明したものなので、
光の力ネクサスに、人間の科学力で間接的に関わってきたTLTの関係の縮図がここにも入れ子の構図になっている。

孤門はウルトラマンではないが、ウルティメイト・バニッシャーを通じて光の絆に触れている重要な人物なのだ。
光の力をネクサスに与えるという試練を乗り越える姿は、主人公として堂々たるクライマックスを迎えたと思う。

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もうひとつの伏線の消化。
姫矢の救済という部分に関しては、やや雑な印象なのが残念。

姫矢がネクサスとして戦ってきたのは、試練を乗り越えるという前向きな意思だと思っていたが、ここにきて明かされた姫矢の内心は逆だった。

戦地で背負ったトラウマが罪悪感となっての自罰的行為だったのだ。
自分を罰することで贖罪しようという、死へ向かう救済願望が彼を瀕死になるまでの過酷な戦いに駆り立てていた。
いわれてみれば、これまで描かれてきた姫矢像と合致する。

かつて根来に「そんなにまでしてお前はなにと戦ってるんだ」と問われた姫矢は「俺が戦っているものは宿命です」と答えたが、
自罰の念を吐露する姫矢の姿には、決してなにかと「戦っている」人間のもつ覇気はない。
姫矢のネクサスとしての戦闘は、本質的には「戦い」ではなく無機質な機械的行為だったということだ。

これはヒーロー像としてはかなり情けないというか、
悩むだけ悩みました、ボクはがんばったので殺してください、あとはよろしく。
というような投げやりな態度がヒーローとして相応しいかというと疑問。
副題は「英雄」なのだから、ここでいう英雄はやはり主人公孤門であるといえる。

姫矢は最初から最後まで、主人公に関わって救済しあった同胞の位置でしかない。
しかも最後は戦場で見殺しにした少女の霊魂に助けられている。
孤門を補佐し助けてきたヒーロー的実績はあるが、
今彼が内心を語った後、振り返ってみると、
姫矢は孤門を助けているようで、自分を映し見た孤門を救済することにより、むしろ自分が孤門に助けられている。

なんだか、助けられっぱなしのウルトラマンであった。
それが今回打ち出した異色ファクターなので、これは成功してるといえるのかな。

ただ、やっぱり霊魂のひとことで簡単に助けられちゃう展開は雑な感が否めない。

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CGがかなり頑張っていたので、姫矢編の終わりに相応しい出来となった。
TLTとネクサスとダークメフィストが三者入り乱れての空中戦は、TLTの異例の存在感もあってかなり興奮できる。
CGにおいても板野サーカスは健在で、ミサイルの乱舞はもちろん。
ネクサスが空中から反転するシーンなども、非常にアニメチックなセンスを反映したテンポのいいアクションになっていた。

ここまでいろいろ不満な部分も多かったネクサスだが。
今回、演出的にも文句のつけようがなく、脚本の好調、力の入った特撮やCGもあいまって、
姫矢編の有終の美を飾ったといえるとは思う。
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2005.05.18 Comment:0 | TrackBack:2

17・18話
凪と溝呂木の過去の関係や。
溝呂木がなぜダークメフィストに変身するようになったかの秘密が明かされる。
(以下ゆるいネタバレあり)


一年前の惨劇の中で溝呂木は殺戮の楽しさに目覚めていった。
姫矢が光のパワーに選ばれたのと同じく、そこをダークメフィストに魅入られたわけだ。

人間の極端な二面性を具体化したような二人のキャラ。
人間のもつ光と闇。聖と邪の代理戦争をやらせたいらしい。
なんだか安直なテーマだが、まあ王道といえる筋道には安定感もある。

サイコな悪党ひとりに罪を押し付けて安心するのではなく。
悪も善も人間が内包してるもので、悪とは原罪なのだというとこまできちっと描けば、オーソドクスながら評価できるものが仕上がるんじゃないかとは思う。


ダークメフィストの身長が、ファウストが現れたときと同じく、
3メートルほどの微妙な大きさで、これがやたら怖い。
CG技術が発達して、違和感のない合成ができるようになったのでこんな芸当も可能になったのだろうね。
溝呂木の顔をぐわっと覗き込んでくるシーンが演出的にかっこよかった。

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19・20話
「人生の目的」が今回のテーマ。
姫矢に憧れるカメラマンが姫矢のような写真を撮ろうとしてビーストに食われてしまうのだが、それをよしとする脚本が気に入らない。

アイドルの写真ばかりを撮る仕事にうんざりしていた男が、
伝説の戦場カメラマンとして有名だった姫矢に出合って、俺のやりたかった仕事はこれだ!
と発奮し、政府がひた隠しにするビーストとTLTの戦闘場面を激写。
あっけなくビーストに食われてしまう。

このあと彼の撮った写真はフリージャーナリスト根来の手によって、世間の目に晒される。
恐らく脚本的には、「死んでも、なにごとかを成し遂げたことに人生の意義があった」ということをいいたいのだろう。

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昨年の5月。
フリージャーナリストの橋田信介さんがバグダッドで武装集団に襲撃され亡くなった。
彼は、その一ヶ月前。テレ朝の『朝まで生テレビ』に出演したとき、誰も自衛隊の駐屯地に行って彼らの現実を取材しないと、新聞社をはじめとするジャーナリズムの不甲斐なさを叱責していた。

その一ヵ月後の『朝まで生テレビ』放送直前に橋田さんは、前言の通り自衛隊を取材しにいって、殺害されてしまった。
ほとんど前回と同じメンツだったパネリストの面々は、橋田さんが身を持って示したバグダッドの現実感に動揺せざるをえなかった。

戦場ジャーナリストが、戦場で死ぬのは本望といえる。
橋田さんは、素晴らしい生き方をして、自分が人生に設定した仕事をまっとうしたといえるだろう。
どこで死ぬかわからないのが戦場カメラマン。
どこで死んでもそれは想定内の終わりなのだ。

しかし当然だけど、むやみに命を散らしてもいいというわけではない。
死なないに越したことはないんだし。
有意義な死の中にも、さらに「有意義な死」と「犬死に」は細分化できるのではないか。

そのだいぶ後、同じ朝生だったと思うけど、懇意にしていたコラムニストの勝谷氏だったか、(いや違うかもしれない)
「橋田さんの人生は称えられるべきだが、きちっと「ミスはミスだ」と指摘すべき」それが橋田さんに対しての礼儀だ」と語った人がいた。

ほんとにそう思う。
その彼によると、橋田さんは直観でバグダッド行きのそのルートは安全だと、神がかりなインスピレーションをもとに行動してしまった部分があって、そのために若い助手の小川功太郎さんまで巻き添えにしてしまったというのだ。

戦場でミスはあって当然。ミスをするなといったら誰も報道なんかできないと、橋田さんが生前出演したときの田原総一郎が言った。
それも道理。
しかしミスを指摘してこその道理だ。
ミスひとつが、文字通り命取りになる現場ならなおさらのこと。

今回のネクサスが扱ったのは、本来ならそういった重いテーマのはず。
「命を懸けてでも真実を伝えるジャーナリズム」というテーマを扱うのなら、
こんなハンパな形ではなく、きっちりそこまでテーマ性をつきつめたものを作って欲しかった。
どうせ子供番組という体裁は無視してるんだし。

番組の中で死んだカメラマンは猪突猛進に「自分探し」をした末、
仲間の制止を振り切ってシャッターを切り続け、ビーストに食われてしまった。
見たときの素直な感想だけど。ギャグにしか見えなかった。
(実際ふきだしそうになった)
これは、そういった噴飯もののフィルムが出来上がることを想定できなかった脚本家のミスだと思う。

僕はこの脚本家の実力をかなり認めているので、ミスを指摘するのが礼儀だ。

2005.05.17 Comment:0 | TrackBack:0

ネクサスをついこの間見始めたと思ったんだけど、
見るのサボってるうちに、気づいたらネクサスの後番組の宣伝が始まってる・・・。
7月から『ウルトラマンマックス』が始まるそうで。

てっきり1年=52話ぶんやるのかと思ってたので、こりゃ視聴率で苦戦しての37話打ち切りかなあと。
2chの特撮板覗いたら、やはり打ち切りクソ番組扱い。
しかもネクサスアンチスレが大盛況のようで・・・
まあアンチの意見をざっとみてると、言わんとすることはわかります。

アンチに反論する信者の書き込みも負けてないようで、打ち切り説への反論もかなりあるようですね。
信者VSアンチの論争が繰り広げられる作品というのはけっこういい作品だったりしますが、さてネクサスはどうでしょう。

最初から37話終了の予定だった可能性も否定は出来ませんが、
デュナミストが入れ替わるという設定は、広げれば無限のドラマが出来る可能性があっただけに、デュナミストが二人だけで放送終了というのは、やはり打ち切りに近い事情があったんじゃないかなという匂いはします。

視聴率がよければ続投のチャンスもありという感じで始まって、やっぱダメだっただけって気がしますね。

まああまりネット情報を見ると、周回遅れで視聴してる僕の視点も誘導されるので、気にしないで好きなこと書きます。
なるべくリアルタイムで見てるかのように錯覚しながら、いま駆け足でネクサス見てます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 14.15.16話

「過去は変えられないが、未来は変えられる」
というテーマを、三話かけてやっていた。

憎しみを力にして敵を倒せという女上司、凪の言葉に一見含蓄があるようにみせかけ、
憎しみでは何も解決できないという姫矢のセリフに本当のテーマがあった。

この辺の脚本の技巧の上手さは、ミステリの真犯人にいきつくまでのミスリードの手法にも似ていて、玄人っぽさを感じる。

悲しみの淵にいる孤門に立ち直るきっかけを与えたのは、凪が差し伸べた手。
そこにスポットを当てることで、凪の説教に正当性があると思わせた。
「憎しみでもなんでもいい。目の前のものをなんでも利用し糧にして、這いずるようにしてでも生きていかなきゃいけないんだよな」と。
作家自身が言いたかった、視聴者への前向きなメッセージのように見えます。

そう思わせておいて、この脚本家は前言をひっくり返す。
実は凪自身が孤門と同様に傷ついたまま、かろうじて立ち上がった状態の満身創痍状態だということが薄々わかってくるのだ。

この状況は、傷ついたもの同士が傷を舐めあい、陰のスパイラルを生み出している。
いわば悪しき共依存を表しているように思った。

凪は自分が病んでることにさえ気づかないヤバい状態なわけです。
さらには自分を鏡のように写した孤門に、正しい道と信じて無意識に自分と同じ見せ掛けの回復の道を、毒沼の上にかかった腐ったつり橋とは知らずに歩ませようとしている。
カラ元気の二人三脚で疾走する二人が行き着く先は遅かれ早かれ地獄方面だということです。

憎しみを背負って前進することは、過去の鎖のフックをはらわたにひっかけ引きずりながら、内臓をぶちまけてるような行為に似ている。
前進すればするほど自分を傷つける。

三者三様にトラウマを抱えた凪。孤門。姫矢。
この中で、この苦難になんらかの光明を与えることが出来る人間は、
トラウマに向かい合って乗り越えようとしている男、姫矢だけだったというオチ。

第16話「迷路-ラビリンス-」のクライマックスでは、ネクサスが怪獣の口をこじ開け、口の中の再生臓器を孤門が撃ち、再生するやっかいなこのビーストに止めを刺す。
その姿は、凪と孤門が支えあうのと似てはいるが、共依存というよりはまるで姫矢と孤門が互いをに刺激と影響を与え癒しあうかのような共同作業。
つまりこれはデイケアだ。
ネクサスはメンタルヘルスへの関心が高まったこの時代を反映し、人の心に焦点を当てた作品だということが明確になってきたようだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

この構成はかなり見応えのある内容だとは思う。
しかし、そのテーマを表現する手段には少しというか、かなり問題があった。

①姫矢の説教を、孤門が納得するためのエピソードが、テーマとからんでいない。

・ネズミビーストの頭に捕らわれた女の子ごと、ビーストを撃ってしまった孤門は、憎しみの無力さを知るが、憎しみの結果他人を犠牲にしたという相関関係が不明瞭。
極端にいうと、孤門は運が悪かっただけ。
それを憎しみの暴走した結果の悪影響とするのはあまりに雑な展開。

・それだけでなくネズミビーストを撃つまでの憎しみに捕らわれてる孤門の心理描写が足りず、伝わってこない。この辺はやる気がないのか、脚本の意図を読み取れず表現できなかった監督の責任もある。

・なんで二回目に遭遇したネズミビーストを攻撃できず他の隊員に助けてもらったことが「憎しみはなにも生まないと悟る」ことにつながるのかどうしても謎。
孤門が憎しみにかられた経験を思い出し、ネズミを攻撃することに疑問をもって立ちすくんだからこそ、ネズミに攻撃のスキを与えたのであって、あの状況で迷うのは孤門の弱さでしかない。
悟るきっかけとしては役不足すぎる。

②内容の重さに、表現がついていけていない。
傷ついた人間に憎しみを捨てろとまで主人公にいわせる作家は、
自らが人を殺したいほど憎んだ経験か、もしくはそれに相当する見識を明かす必要がある。
そうでないと「お前が言うなよ」という類の説教になるからだ。
もちろん作家は作品の中で勝負するのが本分である以上、作中でそれを表現する必要があるのだが、具体的にどうしたらいいというものではない。
「過去を見るな未来を見ろ」なんてセリフは頭でっかちの能天気な阿呆が言いかねない危ういセリフでもあるのだ。
マニュアルで語ると上滑りになって薄っぺらさと説教臭さだけが目立つ。


実は今回の三部作で、それをやっちゃったんじゃないかと思ってる。
シリーズ構成の長谷川か、監督の小中が意図したことが、各話の脚本家や演出家に伝わってなかったのか。
そもそもこういうテーマそのものが、どこかの小説などのパクりだったりするせいでなのかはわからないが、
テーマに内容が負けてるので、これは残念ながら失敗作。
できあがったフィルムに安っぽさがあったらどんなにテーマが深くても失敗作だ。
逆にパクりであろうと表現できてれば成功作。
やはりフィルムは最終的に監督のもの。小中和哉の力量が問われる場面だったのに。

重いテーマを扱って手馴れた手管で捌く手腕は手塚治虫もそうだった。
もしかしたら手塚の傑作「ブラックジャック」の映像化に小中が成功した(僕はそう思ってる)のは、
その手管が手塚と似たもの同士だったので波長が合ったのではないかと疑ってしまう。
ただ手塚の手練手管は常人のそれから並外れたものだったのだ。

手塚なら単刀直入に殺せという気がする。
ベトナムの戦災孤児が麻酔で動けなくなったアメリカ将校を囲むというBJのエピソードを思い出した。
ただ手塚の場合は問題提起はしても、放りっぱなしで。その語りきらないことさえも感動の演出として仕立て上げる手管が上手かっただけかもしれない。

実は駆け足で第20話くらいまで感想書こうと思ってたんだけど、3話ぶんでこれだ。
ダメだこりゃ終わらないよ。マックス始まっちゃう・・・!

2005.05.03 Comment:0 | TrackBack:0
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