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(twitterに加補筆)

岩井俊二企画・脚本のドラマ『なぞの転校生』を毎週楽しみに見ている。

最初、変態ハゲの着替え盗撮シーンから始まってどうなることかと思ったが、回を追うごとにどんどん面白くなっていく。

今週第9話の冴木のセリフがいい。

「僕に手足をもがれた虫は、言葉を喋れたら僕に”ありがとう”と呼びかけるかもしれないじゃないか」

転校生=山沢典夫をためらいなく屋上から突き落とすような異常人格者の冴木だが、
彼は家庭に問題を抱えた小学二年生の頃、すでに虫の足を好んでもぐような子供だった。
だが担任の三枝愛子先生は、彼を優しい子だと言い、
家庭訪問した際、彼の両親のこともまた優しい親だったと、クラスのみんなの前で言った。

しかし実際の冴木家は、父親が母親に暴力をふるう壊れた家庭だったのだが、担任の先生にはそのことは見えなかった。

この歪んだトラウマ体験から冴木は大事な気付きを得る。

「三枝愛子先生は身をもって僕にあることを教えてくれた。世界は自分で決めればいい。自分が思い込んだ世界こそが自分の世界であって、他人に決めさせるものではないんだ」

冴木は、自分とその家庭を手前勝手な思いこみで理解の中に収めようとした三枝先生の傲慢を正しいと評し、凶悪な性根を隠さずありのままの自分を生きることを選んだ。
その姿勢のみにおいては、彼の考え方は公平で筋が通っているといえるものだ。



その冴木の人格を強制洗脳で友愛的に改変したのが、なぞの転校生─山沢典夫のモノリスで、
このテクノロジーは明らかに人道的に狂った使われ方をしているのだが、彼ら異世界人はそれに依存しすぎて、おかしいという感覚すらない。
それゆえ彼らの世界はモノリスのために滅んだらしい。

異常人格者から「人格者」へと強制的に性格を変えられた冴木が、転校生のモノリスの洗脳を逃れて(別のモノリスに操られてはいるが)本来の人格を取り戻したというのは、彼の正当な権利を取り戻したにすぎず、その結果彼は凶悪な人間に戻った。

多くの人にとってそれが不利益な事であり、
また世の中の大多数の人間にとっては、蘇った彼の人格が成しえることが不正義であるという事に間違いはないが、
この物語が提示してるテーマとその誠実さの前では、視聴者はそれを単純に悲劇だと言いきれない。

それはたぶん、世界がもともと美しさと同時に、(冴木が言うように)残酷で悲しい部分をもっていて、実はそれこそがあるべき自然な姿なのだと。
そういった事をこのドラマでは隠さずにあえて強調していて、その文脈の中には、真実に光を当てるかのようなある種の清浄感のようなものがあるからなのだろうね。



あと「王妃の放射線障害」や「プロメテウスの火」というキーワードに象徴されるように、
この番組には反核のメッセージと受け取れる痕跡がところどころにあって、それらの要素が小出しにされ始めてからは、どうしてもそのような目線で見てしまう。

東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故以来、
反原発活動に傾倒してる岩井俊二にしては、この時期にドラマに初挑戦しての「これ」というのは、むしろずいぶんおとなしい表現だなという印象を持ってたのだけど、
この数話かけて、異世界(D-8世界)の人達の台詞や、こちら側のD-12世界を初めて見た時のリアクションを数珠繋ぎにしてくのを見てるうち、予想外に重い表現だなと思うようになった。

異世界から来た連中は皆一様に、こちらの世界の空の色を見て驚く。
彼らの、その感嘆する異様な姿を見てるだけでも、なにかしら胸に迫ってくるものがある。
とくに先週の第8話で、命がけで転送してきた少年が、何気ない空を見てその美しさに感動するシーンが印象的だった。

夕暮れの空の下で息絶えた彼が最後に思ったのは、在りし日の故郷への郷愁だろうか。
それとも彼にとっては新しい世界の空に映し出される希望だったろうか。

今週の王女の帰宅シーンでも、下校時に降り注ぐ憂鬱なだけのただの雨を「綺麗な雨」だと喜んで濡れて帰る姿が描かれ、このように何気ないことに感動する滑稽な異世界人達を通して、彼らが失ったものと、そして我々がまだ失っていないものの大きさを強調しようとしてるのでしょうね。



まあそもそも、このドラマの中で描かれている日常世界=「D-12世界」は、我々視聴者の住む世界と同一ではない可能性が以前のある描写から考えて、かなり濃厚なわけですが。

だとすれば、「超」の二つくらいつく救いのないバッドエンドも可能だと思ってしまう。
来週からはバッド展開突入らしいのだけど、「D-12世界」が別の世界なのだったら、
その方がテーマが際立つような気もするし。だったら嫌だなあ。

むしろD-12が滅んだほうが、我々蚊帳の外にいる視聴者は身につまされるだろうなあと。

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2014.03.08 Comment:0 | TrackBack:0
今日の夕方6時半頃自転車を走らせてたら、もう暗いのに路上で5歳くらいの男の子が遊んでいるのに出くわした。
子供用の自転車にまたがって、つまらなそうに路上をうろうろしてるのだ。
子供らしくない遊び方なので少し不気味に思ったら、すぐにその理由がわかった。

よくみたら、子供の向こうの暗闇の中に人影が。
横を通り過ぎながら目をこらすと、色んな年齢層の奥様方が輪になって井戸端会議してた。
いったいいつから喋ってたんだろう。



先日、TBSで5夜連続の大作ドラマをやっていた。
橋田壽賀子脚本の『ジャパニーズ・アメリカンズ』という、アメリカにわたった日系人の運命を3世代にわたって追いかける壮大な物語だ。

アメリカの土地に根を下ろしアメリカ人として生きようとしながらも、日本人としての誇りを持ち続ける彼らの二重性と複雑な感情を見事に描いていた。

主人公の一家は、真珠湾攻撃で口火を切った太平洋戦争の開始と同時に田畑を取り上げられ、日系人収容所に送られることになる。
急ごしらえの簡素な小屋が並ぶ他になにもないこの世の果てのような場所を、一家を含む彼ら日系移民は持ち前のフロンティア精神で、井戸を掘り、日本庭園をつくり、畑を耕し、少しずつ住みやすくしていくのだが、
その収容所の描写でとくに印象深かったのは、掘った井戸の側で主婦達が文字通り井戸端会議してる場面。
どんな所でも、それこそ荒野の果ての強制収容所でも日本の主婦は井戸端会議を始める。
そういう描写で日本人の習性を表現してるのだと思った。

だけど、外国人の主婦はやらないのかな。

2010.11.10 Comment:0 | TrackBack:0
普段からTV情報には疎いものだから、
新聞のTV欄の番組宣伝広告に「木枯らし紋次郎」の文字を見つけて驚いた。
リメイクが作られてることをまったく知らなかった。

紋次郎番宣CM

幸いなんの先入観もない状態だったわけだけども、
この番組宣伝用のスチールを見たとき、江口洋介だと気づかなかった。
それはこの写真があまりに紋次郎らしかったからだ。


これは見なければならない・・・!
しかしこの日、僕は紋次郎を見なかった。
後日見ることになるわけだけども、それには理由がある。

この番組が放送される日は金曜日。
1月から始まった『必殺仕事人2009』の裏番組なのだ。
・・・これは 絶対わざとぶつけてきたに違いない。


紋次郎vs必殺
   ↑5月1日の新聞TV欄

1972年9月に始まった必殺シリーズの第一作『必殺仕掛人』は、
当時人気絶頂だったフジテレビの中村敦夫主演の『木枯らし紋次郎』に対抗するべく企画されたもので、
朝日放送(当時のTBS系列)は、土曜の22:30分から始まる紋次郎よりも30分早い22:00に『必殺仕掛け人』をぶつけてきた。

結果、紋次郎の前に必殺を見た当時の視聴者は、そのピカレスクで刺激的な内容に魅了され、22:30分になっても紋次郎にチャンネルを合わせなかったのだろう。
ビデオなどない時代だ。
結果、紋次郎は撃沈されてしまう。

それほど『必殺仕掛人』は素晴らしい作品だったからだし、僕も仕掛人の大ファンだから、
この結果には納得するところが大きい。

すでに第2シリーズに入っていた木枯らし紋次郎が世間に飽きられていたという以前に、このふたつを比べてしまうと、
鮮烈で刺激に満ちた必殺と、地味にハードボイルドな紋次郎では、どうしても紋次郎には分が悪いと思う。
だからといって、紋次郎の価値が必殺に劣るかといえば決してそうではない。
紋次郎の寡黙さの中に彼の魅力があるように、脚本演出含め地味なところにこそ『木枯らし紋次郎』という作品の最大の良さがあるからだ。

あれから36年。
紋次郎と必殺が再び裏番組として激突するというのだから興奮する。




さて、現在では当時と違いビデオというものがあるので、
どちらかをビデオ録画して両方見ることが出来る。
36年前のように、片方を切り捨てなくてすむのだからありがたいことだ。

どちらを見るか迷ったが、どちらを録るかという観点で考えたら簡単だった。

というわけで、当日は『必殺仕事人2009』を見て、
あとからビデオで紋次郎を見たわけです。


対決の結果は・・・今回に限っては僕の判定は圧倒的に紋次郎です。

僕は『必殺仕事人2009』も素晴らしい作品だと思ってるのですが、今回に限っては
(「武士の異常愛」の回)、おざなりで雑な筋書きでシリーズを通してもレベルの低い回だったと思います。

そして紋次郎ですが・・・・

素晴らしい。
ほんとに素晴らしい。
ネットの感想をみると、主演の江口洋介の出来具合も含めて、賛否両論のようですが、
これは、このリメイクへの期待値も大きく影響してるのではないだろうか。
僕はなんというか・・・ほとんど期待してませんでした。
これは『必殺仕事人2009』にまったく期待してなかったのと同じで、
その反動で当たり前のことを当たり前にやっているだけで、素晴らしく映るのかもしれません。
でも、その「当たり前のこと」をやるのが難しいんですよ。

今回の紋次郎は、なんといっても、1972年のオリジナルにたしかにあったものがたくさん再現されてました。
一番大事なところは「貧しさ」です。
貧しさゆえに生き方を方向付けられ、その運命から逃れられないものたちの悲劇。
そんな悲しい空気が作品全体を覆っている。

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ドラマ:「21世紀版」木枯し紋次郎、江口洋介主演で復活--5月1日、フジテレビ系 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20090423dde012200071000c.html

 学園紛争の余燼(よじん)が漂う72年は、反体制、はぐれ者、一匹オオカミ、孤高の人といった紋次郎像に支持が集まったが、09年はどうか。江口が語る。「今の世の中、孤独な人が多い。紋次郎も孤独でかかわり合いを持たないように生きているが、人間、自分の人生を歩いていると必ず事件に遭遇する。孤独で困っている人を見ると、孤独な人ゆえに余計助けようという気が起きるのではないか。そんな時代性を感じる」

 中村も今日的意義を説く。「紋次郎は間引き、つまり社会に最初から参加するのを拒否されかけた人間。格差社会の今も最初から参加できない若い人がいる。極めて現代的なドラマだと思う」


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このあたりを読むと、今回の紋次郎はたしかに、時代に迎合して新しいものを作っているように思える。
しかし、これは単に紋次郎の世界が現代に似た共鳴を起こしているだけの話で、そっけない言い方をすると単なる偶然にすぎない。
一億総中流の夢があり、終身雇用の社会が磐石のものと信じられていた時代に作られたオリジナルの紋次郎の中に、これらの要素はすべてあったのだから。

一方『仕事人2009』のほうは、完全に現代にあわせてます。
しかし、これは時代に迎合しているというよりは、「必殺」が最初から持っていた要素、
すなわち「時代を反映させる」「むしろ現代劇」という遺伝子を受け継いでるだけの話で、スタイルとしてはやはり過去作に敬意を払った忠実なリメイクなのです。

両方、オリジナルの匂いを損なうことなく、長い時間を経て色あせずに復活してきたことがすごいと思うんです。
そして、裏番組として激突ですよ。
なんて粋なんでしょう。



■キャスト
さてここから、もうちょっと具体的に感想をいいますが、
まず主演の江口洋介。

僕は彼でよかったと思います。
中村敦夫のオリジナルに心酔している人には不評のようですが、なにかに惚れた人というのは同時に目が曇っているものです。これは心酔することの副作用でどうしようもない。
ということは、僕はそこまで熱く語るほうではないライトファンなのかもしれない。
江口は中村の雰囲気をよく出してるとすら思います。
若干輪郭が丸くえらが張ってるのがオリジナルのイメージを削ぎますが、
全体的な雰囲気は救命病棟24時での新藤先生のときの色気に年齢的な深みが加わった感じで、
紋次郎の役を演じるうえでのオーラは十分にでていると思います。
江口の場合、顔の下半分が特にいい。
紋次郎のトレードマークである長楊枝をくわえた口がもう紋次郎です。
上に載せた番宣写真を見て違和感がなかったのはそのせい。

若干「目が綺麗」なのが、かわいい感じになっちゃって、目を大写しにすると危ないときがありますが、
紋次郎はほとんど編み笠をかぶってるので、顔の下半分のよさを考えたら大満足。
それに目がきれいだっていいじゃないですか。これは江口版の紋次郎なんですから。
他にも江口紋次郎は声が軽いかなと思ってましたが。
実際、出だしはそういう不安なところが多かったはずなのに、番組をのめりこんで見てるうちにそんなことは忘れ、終わる頃には、紋次郎は彼しかいない。
紋次郎がそこにいる!と、なんの疑問もなくそう思っていました。

小判鮫の金蔵を演じる小澤征悦や、ストーカー気味のヤクザ渡辺いっけい、
表と裏のある悪女の演技を(二層がちゃんと重なるように)見事に演じわけた若村麻由美もとてもよかった。


■演出
演出も良かった。
とりたてて、どこがどうとはいえないんですが、
たとえば必殺のように、鮮やかな光と影のコントラストや、仰天のアングル。テンポいいカット割り。
盛り上がるBGM。

こういった、血が沸騰するような要素は、紋次郎には必要ありません。
むしろあっちゃいけない。
紋次郎は地味であり、地味の中にこそよさがある。
2時間という時間を飽きることなく最後までみたのは、脚本のせいもありますが、
縁の下の力持ちとして緊張感を途切れさせなかった地味な演出のあったおかげだと思います。

存在しない世界を存在するものとして紡ぎだし、存在しない人物を存在するかのようにみせかけ、
なおかつ画面の中で決して緊張が途切れない。

ビデオを巻き戻して見ると、細やかなところで、細やかな演出をしてるのがわかる。
ほんとうに地味な要素の集積なので、どこがどうとはいえない。
ただそういう地味で当たり前の演出技術で作品を盛り上げることこそ真に難しい芸なのではないだろうか。
紋次郎をTVに送り出した市川昆は亡くなりましたが、時代劇の演出家はまだまだ層が厚い。

そういや地味地味といいつつ、
ひとつ、演出的に強烈なシーンがあった。
それはラストシーンの紋次郎の顔越しに、ヤクザの源之助が、商家の後添いお市を惨殺するシーン。

紋次郎は、関係ないフリをして、いつでも正確にものごとを観察している。
しかし、ラストのシーンで、紋次郎はお市への凶行を傍観どころか見もしなかった。
ここで大事なのは、彼が”本当は見ている”ということ。
見ているけども、手は出さない傍観者に徹したということだ。
傍観しようとして手を出さずにおけないのが紋次郎。
この場面で紋次郎が手を出さなかったのは、明らかに彼の強い意思による”行動”なのだといえる。

この手を出さない紋次郎の顔を大写しにして、カメラがぐるりと回転して「絶叫」や刀を振り回す様子の一部分などをはさんで、背後の情報を小出しにするという演出は、
この紋次郎のキャラクターを最後に最大限まで表現したと思う。
終わりよければ全てヨシとはいうが、全部良かったうえに、最後まで本当に素晴らしかった。


■ストーリー

脚本良かったです。
紋次郎の世界を・・・貧しさに翻弄される人々を配置することで、
天保の大飢饉があった時代の、どうしようもなく無常ではかない世界観をつくりあげていた。

特によかったのは、そのような貧しさと真逆にあるポジションの悪女、お市。
当初こいつが大ボスだとはまったく気づかなかった。

そのヒントが視聴者にようやく明かされるのは、ともさかりえ演じるかけおちした商家の娘おまんのセリフ。
「あのひとは自分の思い通りにしなければ気がすまないんです」
このセリフをきいても、そこまでの経緯ではとてもそういう筋書きには見えなかったんで、
紋次郎と同じく、見ているこっちもなにかの勘違いではと思ってしまう。

でも、よく考えてみたら、人間への強い評価というのは簡単には見過ごせない大事なことだ。
当事者にしかわからない事情があるはず。
時間が随分経っていて、当時と事情も変わってるので、あの頃とは考えが変わったのかもという筋道も考えられるが、
これも”人間は簡単には変わらない”という現実のほうが重くのしかかってくる。

これらの疑問は、最悪の展開で裏付けられるが、同時に胸のつかえがすっととれるようだった。
当初のお市が発する、誤読を誘うようなセリフも含めて、キャラクターが見事に一貫されているからだ。
そしてキャラクターというのは、その人物がどういう人生を歩んできたかということと密接な関係がある。

この作品に登場したキャラクターたちは、誰も彼も”生まれ”に支配されている。
これがこの作品のテーマで、それをきっちり描いたところがこの脚本の最大の功績だと思う。


この悪女お市のキャラクターは、彼女と共謀した男、小判鮫の金蔵の人生と対比されるように対になっている。


金蔵は貧農の出身で、6人兄弟の5番目に生まれた。
畑は継げず、兄の家で奴隷のようにこきつかわれる運命。
その運命から逃れるために彼は渡世人になった。


一方お市は、総名主の娘でそれをプライドにして生きてきた。
総名主の娘として生まれたことが彼女の人生を決定付け縛っている。
彼女の欲望が尽きることはない。彼女は欲したものはなんでも手に入れてきたのだから。

このふたりは共謀して、互いの為に交換殺人のような取引をしているのだが、
それもこれも彼らの生まれのせいで、それはまったく真逆の人生で、真逆の欲望。
そしてその真逆な二人の目的が奇妙な一致をしているのが悲しい。



そして第三の男が紋次郎だ。
紋次郎はいつでも第三者だ。
主役でありながら、物語の真ん中には身を置かない狂言回しのような位置にいる。
それが彼のキャラクターだからだ。
「あっしには関わりのねえこって」といいつつ、心の内に秘めた「関わりたい」という欲望がいつも彼を人に寄せ付け、結果事件に巻き込まれてしまう。

貧しさゆえに悪の道に手を染めた男金蔵は、裕福ゆえに悪女となったお市と対照的に描かれているだけでなく、もうひとつのラインでは紋次郎と対比されている。
ある意味で金蔵は紋次郎の写し身で、もうひとりの紋次郎だ。

金蔵は貧しさから逃れるために渡世の道に入ったというが、
紋次郎は「気づいたらなっていた」という。

この二人のセリフは、ふたりの世界に対する認識が反映されているように思う。
つまり、そうなる以外に道がなかったから無宿渡世になるしかなかったところまでは同じだけども、
そこから先への人生の展望への考え方がまるで違うのだ。
ある意味、自分の運命と戦おうとしたのが金蔵で、運命から逃げ続けているのが紋次郎ではないのか。
この時代、このような人別帳にも載っていない人間が、これまでのすべてを清算するには、悪に手を染めるしかなかった。これは許されるべきことではないがモラルさえとっぱらってしまえば、ひとつの道理だ。

紋次郎は、死の間際の金蔵に「のたれ死ぬ」といわれたが、「そのときは死ぬだけで」とあっさり答え、死や運命を受け容れてるかにみえる。
しかし、本当にそうだろうか。
これは、『木枯らし紋次郎』が最初に創作されたときからのキャラクターとしての根幹の部分に思うが、
彼はなぜ根を下ろしたがった金像と逆に、一宿一飯程度の滞在しかせず、旅を続けるのか。
原作も読んだことはなく、オリジナルの紋次郎も再放送でまばらにしか見たことはないので、
間違っているかもしれないが、僕の解釈はこうだ。

彼は希望を捨てていない。

一家は離散し、行く当てもなくただその日を生き、旅をする彼は、
自分を殺そうとしたこんにゃくが食べられないように、自分の生まれを呪っているし、
貧しさも呪っている。その象徴である上州新田群は彼の故郷であると同時に一番呪っている場所でもある。
しかしこの世のすべてまでは呪っていないのではないか。
自分を救ってくれた姉は死んだけれども、それと同じ救いがどこかにあるのではないか。

生まれてまもなく間引きされて死ぬ運命のところを、姉の機転で助けられた紋次郎は、
世界に捨てられるギリギリのところで、祝福され世界に受け容れられたといえる。
この成功体験が、無宿渡世の道に追いやられてなお、彼が世界に絶望していない原動力になっているのではないだろうか。
さらに彼と同じように間引きされた多くの子供たちと違って、紋次郎がこの世に生まれ育ったのはなにか意味があるはずだと、彼はこう思ってるのではないのか。

だから彼はあてのない「希望」に向かって歩みを進めているように思える。
この解釈は、主題歌『だれかが風の中で』の歌いだし「どこかで誰かが きっと待っていてくれる」から喚起されたイメージを基にしているのだけど、
虚無の表情は見せ掛けで、胸のうちはウェットなのが紋次郎の魅力であることだけは少なくとも間違いない。
であれば、彼の旅の理由もおのずと虚無とは真逆の位置にあるものだといわざるを得ない。

上のほうで、現代を反映しているのは偶然の一致だみたいなことを書いておいてなんだけど、
こう考えていったら、この脚本での今回の金蔵と紋次郎の対比は、そういった現代にも通じる「希望格差」を意識的に描いているといえなくもないのかな。




最後に、続編希望です。
必殺もパイロットにあたる『仕事人2007』から二年越しでTVシリーズとして復活しましたが、
紋次郎もこのすんばらしい出来なのだから、次を期待してます。
今回の視聴率次第なんだろうけど、ぜひ江口版をテレビシリーズで見てみたい。



2009.05.04 Comment:0 | TrackBack:0
日テレ土曜9時のドラマ。

第一回目の放送を見た。
このドラマはもともと深夜にやっていた30分ドラマの評判が良かったので、今回キャスティングを新たにしてゴールデンに昇格したというもの。
たまたまこのオリジナルの深夜版を見ていたので、どう焼きなおすのか注目して見てみたのだけど・・・

あくまでオリジナルの深夜版を見たうえでの意見だけども、
ゴールデンのほうは、主演の櫻井翔くんが大変残念なことになっている。
はっきりいってミスキャスト。
ゴールデンでやる以上は、ジャニーズなどの人気タレントの配役でやるのはしょうがないのだろうけど、
にしても櫻井くんの出来はかなりきびしい。
もうちょっとはっきりいうと、演技力がないのが致命的だ。
というか彼はド下手だ。

いやほんと、やばいくらいにやばい。
NEWS ZEROでのキャスターでの櫻井くんのまっすぐなコメントが好きだったので、
今回のミスキャストのせいで櫻井くんまで嫌いになってしまいそうだ。
繰り返すけど、やばいってこれ。

この櫻井くんがやってる司会者の役柄は、深夜版ではラーメンズの片桐仁がやっていて、
彼はアングラ舞台風のコントを生業としている素地があるので演技が上手いうえに、片桐の怪しさ満載のキャラクターが司会者のキャラクターと完全に合致していたのが見事だった。
これをみたあとで、櫻井版を見るのはかなりつらいものがある。

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この司会者は、表面上盛り上げ上手な進行役のふりをして、突然合間に無礼な言葉を入れて、
あれっいまこの人すごく失礼なこといったぞ? と思わせつつ、強引に流してしまうというキャラ。
慇懃無礼なだけでなく、相手の神経を逆撫でしつつ場の全てを支配する。
考えてみるとものすごく演技力を要求されるキャラで、今回は画面の中の櫻井くんの拙さが改めてそのことを証明してるようなもん。

同じセリフをいっても、片桐仁は地のいやらしさで相手の心を見透かしてる雰囲気がバリバリでてるけど、
櫻井くんのセリフだと、地のさわやかさが出てしまって、いい人が無理してるようにしか見えない。
ていうかいい人が無理してるのだろう・・・
櫻井くんなりに頑張ってるのがわかるので、さらにつらい画面になってしまってる。

終盤の「なーんちゃって」なんか、さわやかなアイドルとしては冒険してるし、実際頑張ってる。
でもそれが裏目ってる。完全に。
頑張っても、ダメなものはダメだし、致命的に演技が下手。
だったら、なんでこんな難易度の高い役柄にキャスティングしたんだ。
彼を潰す気かと。

嵐だったら演技の上手い二宮くんだっているじゃないか。
(かといって二宮くんにもこのタイプの演技は難しい気がするけど)
それに、政治的な理由で彼しか起用できなかったというのなら、ミスキャストというよりは、構成上のミスといえるのではないだろうか。
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恐らく、この司会者のキャラクターはもともとが脚本家や監督の創造だけではなく、
片桐仁ありきでつくられたものなのではないだろうか。
だとしたら、その片桐のための片桐要素を、そのまま櫻井くんに転用するのはどう考えてもミスだ。

人には得手不得手というものがある。
片桐仁を褒めてばっかいるようだけど、去年片桐がルパン三世のOVAに出演したときはひどいものだった。
それはアニメ声優の発声は舞台やドラマの発声とは別物だからだ。
しかし監督がラーメンズを好きだからという理由で主役に抜擢されてしまった。
そこでの片桐の演技はお世辞にも良いとはいえない。
使いどころさえ間違わなきゃ、素晴らしい仕事が出来るかも知れない人をダメな人にしてしまってるとしたら、それは使う側の責任が大きいと思う。

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『ザ・クイズショウ』は第一回目を見た限り、深夜版と基本的なストーリーの構造は同じようだし、最後に待っているオチも恐らく同じになりそう。
だったら深夜版を見ていた人には、ただの焼き直しだけでは物足りないはずだから、ゴールデンで片桐版とはちがう櫻井版ならではの要素を打ち出せば一石二鳥だったのに。

いや具体案はぱっと出せませんけどね。
ともかく片桐チックなキャラにつらいものがあると判断したら、そこから櫻井くんでも演じれるような慇懃無礼キャラに変更するという判断もありだったのではと。

櫻井くんはとにかくさわやかなのだから、さわやかに失礼なセリフをいうとか、
なんかそれっぽいきめゼリフを要所要所でいうんだけど、心がこもってなくて上っ面な感じみたいなキャラ付けになってるような。
そんでここ大事だけど、演技力を求められない方向で・・・

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まだ始まったばかりだけど、このドラマはキモになる司会者のキャラで大大大失敗してると思うので、
たぶん作品としてはダメじゃないかと思う・・・(視聴率のほうは知りませんが)
櫻井くんの演技がここからこなれてきて、いい方向にはじけてくれたら上向くかもしれないけど、
どっちにしろそれ櫻井くんにプラスになるのだろうか・・・

とにかく初回だけみた感想は完全な失敗作だという印象。
深夜版の完成度が高かっただけに残念。
2009.04.19 Comment:0 | TrackBack:0
第8回 21世紀新人シナリオ大賞のドラマ化。

この手の新人シナリオのドラマ化にはこれまでこれといった感想をもつものはなかったので、
たまたまニュータウンフェチだったので「ゴーストタウン」というワードに惹かれて、そのへんの描写に期待して見たわけだけども。
見事に期待以上の出来。

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ヒロインの父はリストラされて派遣で働く低所得者で、
作者も工場で働く派遣労働者だ。

夢も希望も敗れ去った家族と重なるように描かれる舞台は、
かつて「ニュータウン」だった廃墟同然の街。
かつての希望の土地は、いまは荒涼とした「ゴーストタウン」だ。

この荒んだ舞台で、ヒロインの女子高生のたわいのない恋や学業の日常が描かれるのだけど、そんなのん気な描写の中に、一筋縄ではいかない仕掛けが隠れている。


冒頭の人身事故が、どうせラストにつながるんだろうなとは思っていたけど、
そういういやらしい目でみている視聴者の予想を裏切る形で、物語は巧妙な伏線をはらみつつ意外な方向に進む。

終盤「居眠りを起こされる」という実に地味な出来事が大きな変転になっていて、
見ているこっちも、 え、え、なにこれ??? とハテナマークをいっぱい出してしまったが、
ここを境に、視聴者はそれまでの世界が見せかけであったことを知り、物語の本当の姿が現れる。
(これは本当のヒロインの姿であり、同時に世界の姿でもあると思うのだけど)
この真の姿が、潜行していたテーマを伴ってぐわっと浮上してくるダイナミックさと、作者の意図した着地点にストンと収まるところが実に見事だった。

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夢も希望もないような世界でも、
友情やいたわりのような気持ちは存在するし、それさえ忘れなければ世界はまだまだ捨てたもんじゃない。
本当に怖いのは、見たくないものを見ないことだ。
しかし見たくないものを見ずにいると、同時に見失うものは大きい。

「ゴーストタウンの花」という題には、そういう負の世界の影になって見えにくくなってしまった光の部分を熱望するような作者の声がにじんでいるようで心を動かされた。

これは、ドラマで描かれた低所得者層だけでなく。
テレビの前の全ての階層の人にとって等しく必要なメッセージだと思う。

世の中嫌なニュースばかりで、目先の欲を欠いた連中のおかげで世界中がめちゃくちゃになってしまった。
この現実を横目に不安にならない奴がいたらそいつは狂っている。
もしくは自分を殺すほどに愚かなのだ。
なぜならば、狂った世界のつじつまあわせは、見たくないものを見ずにすむ楽天的な勝者のうえにも形を変えて必ずふりかかってくるからだ。
それは宿主を殺してしまうウィルスのようでもあり、ドラマでも描かれた「自死に向かう衝動」にも似ている。

タイトルに釣られてこのドラマを見てよかったと思う。
それはまだ自分が正常であると確認しているかのような感覚を伴う。



テレビ朝日|ゴーストタウンの花
http://www.tv-asahi.co.jp/scenario/index.html


2009.03.21 Comment:3 | TrackBack:2
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