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■ とにかく怖い!

アメリカのモダンホラー作家の代表選手のひとりに数えられながら、クーンツは「ホラー」という意味では、他の作家に遅れをとっていると思う。
それはクーンツの本質が雑多な要素をうまく組み合わせて料理する極上のエンターテインメント作家であり、それがゆえにクーンツの多くの作品群はあくまで猛烈に面白くはあっても、怖くはないのだ。

人間を惨殺する悪鬼がでてきても、異形の悪魔やモンスターが出てこようとも、
その怖さは、ハラハラドキドキのサスペンスであって、骨の髄からしみでてくるような怖さとは無縁のものに思える。

そこがクーンツの良いところだと思うのだが、ホラー作家の一翼を担うのならば、その作品はやはり怖くてもいい。
そして、この『ウィンタームーン』こそが、その期待に答えてくれている作品だった。
近年のクーンツらしからぬといっては失礼だけど、本当に怖い。


『ストレンジャーズ』の前半も得体の知れない大きな存在が世界を侵食する恐怖を描いていて、その謎の進み方にはたしかにホラー要素が満載だった。

得体の知れない存在がじつは政府と密約していて、我々の与り知らないところで想像を超えた陰謀が・・・そして秘密を知った者たちを始末するために黒服の男たちが暗躍している。
日本では矢追純一のやってたようなネタ。

UFOネタは陰謀論と相性がいい。
陰謀論は都市伝説の匂いをもっているから、噂話として幽霊と同列のホラーの一種といえる。
つまり、UFOはそれだけでもうホラーなのだ。


(※以下若干ネタバレっぽいので、細部を知りたくない人は注意)

『ウィンタームーン』にも異星人が出てくる。
しかし、この作品の怖さは、前述のような異星人の怖さとちょっと違う。
どちらかというとゴシックホラーのような部分が怖いのだ。
雪山に閉じ込められた状態で、得体の知れない相手がコンタクトしてくるあたりなどは、UFOものの怖さに近いと思うのだが、物語が進むと、人間の五感に訴えかける寒気を伴った、えげつない形態の侵入者が現れる。
要するに死体だ。
死体がどこからともなく、家の中に侵入して、痕跡を残していくのだが、
設定もさることながら、その筆致がすさまじくえげつない。
ほんとずるいくらいの怖い描写が用意されてて、ページをめくるたびに寒気がぞくぞくとわきあがってきて、それでもページから目を離すことが出来ない。そんな恐怖体験をさせてくれるのがこの小説だ。
クーンツにこんな怖いものが書けたのかと意外ですらある。



■ 作品の完成度と性質

正直、作品としては完成度はそんなに高くはないと思う。
前半、主人公一家が都会に嫌気がさして引っ越すあたりの描写は、
ストーリーをスムーズにつなげるためには有益だったのかもしれないが、
その筋書きに説得力をもたせるために用意されたものなのか、狂った男が銃を乱射したり、主人公が瀕死の重傷を負って生死をさまよう描写は、この作品に本当に必要だったのか疑問だ。
ページ数を増すためだったのではないだろうかと疑ってしまう。

この作品は、過去に別名義で出版した作品のリメイクらしいので、現在クーンツの名で出版するからには、出版社との契約上、ある程度の分厚さが必要だったのではないかと。

この僕の想像は、物語の終わり方からも察することができそうに思える。
この小説の終わり方は少々雑で、クーンツらしからぬ要素に思えるのだ。
クーンツは読後感を非常に大事にする作家で、いつも終わり方にとてつもなく愛情があふれた描写を用意してくれている。
読者が本を閉じるときは満足感で胸がいっぱいになるはずなのだ。
だけど、この作品にはそのような愛情が感じられないのだ。

もちろんクーンツだから、ちゃんとさわやかなオチも用意してあるにはあるのだけど、
ここからじっくりエピローグと思いきや、その書き出しが
「一件落着して~」で始まるのだ。
こんな無味乾燥な書き出しの時点で興ざめなのだが、そこからわずか3ページたらずで物語りにあっさり幕が降ろされてしまう。
これじゃ余韻もなにもありゃしない。


愛がないといえば、物語前半のオチがひどい。
本当に救いがないのだ。
じっくり読ませるテクニックを持った作家だからこそ、こちらも襟を正して、登場人物の人生をかみ締めながら、いろいろ感情移入しながら読み進めていく。
そして読んでいったその先に待っているのは、ひどい不快感なのだ。
これはクーンツらしからぬ暴挙といっても良い。



犬や子供の描写が雑なのも気になる。
クーンツは愛らしい犬や子供を出すのが得意な作家で、それを物語の中でいかに生かすかをいつも考え抜いている。
これは精密な細工をつくる職人のような職業作家としての大きなこだわりにもなっているはず。
それがおろそかになっているのは気になる。
とくに今回、犬の出し方は本当に雑だ。
なにせこの犬は、途中から現れて、家族とのたいした交流もないまま物語が終結してしまうのだ。


だけど、これだけ欠陥に思える部分が多いのに、なぜか全部許せてしまうのは、
クーンツも読者の僕も気持ちは同じだったからではないかと思う。

大事なところは描ききったから、あとはどうでもいいじゃないと。
つまり、ホラーの部分だ。
犬だって、子供だって、愛らしさは満点とはいえないが、犬ゆえ、子供ゆえの役目をそれぞれ持たされているので、ただクーンツ印として物語に登場しただけではなく、ちゃんとホラー描写に一役買っているのだから。

実際、クーンツにしては手抜きと思えるほど描写も構成も雑で幕引きがあっさりしてるのに、不思議とそれに不満がない。
それは、僕の中で、「これだけ怖がらせてもらったのだから、この作品は読んで良かった」という動かしがたい評価がもう決定付けられていて、
読後感がどうかというような、いつものクーンツ作品に対する評価とは別の軸にこの作品が位置づけられるべきものだからではないだろうかと、そういうふうに思うのだ。

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2009.11.26 Comment:0 | TrackBack:0
正直、瓜二つの男が自分を襲いに来るという手垢のついた地味な題材に、まったく魅力を感じなかったので、あまり期待はしてなかった。

それでもこの作品を手に取ったのは、近年のクーンツは『ストレンジャーズ』の頃よりも、設定の奇抜さや読者を食いつかせるつかみの面白さにはあまり頼らなくなっているという感触を得ているからだ。
その感触は、クーンツへの信頼でもある。

この信頼は僕の中のクーンツベスト作品である『心の昏き川』に、読む前にまったく食指が動かなかったという経験から来るもので、この作家はいいほうに裏切ってくれるという期待を込めたものでもある。
だからまったく期待してなかったというなら、それは間違いになるかもしれない。

ともかく、『ミスター・マーダー』は、僕の題材への気乗りのしなさを確実に裏切ってくれ、幸せな読書の時間を与えてくれた。


読んでいる途中、いくつもの魅力的なフレーズに出会い、
付箋を貼りながら読もうと思いつき。後編は実際にそうしながら読んだ。
これほど家族への愛情に満ち、希望に満ち、人間観察に基づいた人生の機微を謳いあげたSFサスペンスホラーは他にはないのではないか。

基本的な骨組みはこのブログでも紹介した『闇の殺戮』と似ている。
(その記事はこちら→)機動日記Z 『闇の殺戮』 ディーン・R・クーンツ

『闇の殺戮』で僕が気に入ったフレーズを再録。

悪は絶望を食べて大きくなる。
悪に対する最大の武器は希望、楽観、固い意志、そして信念だ。
彼ら四人が生き延びるチャンスは、希望をいだきつづけ、生きることが(死ではなく)自分達の宿命と信じ、善は悪を打ち負かすと信じる、ただひたすらに信じる力にかかっていた。


『闇の殺戮』において描かれた絶体絶命の状況におけるこの強迫観念的な「希望」への執着が、
今回読んだ『ミスター・マーダー』では、円熟味を増した筆致で描写されている。
その部分を引用。

「知っての通り、僕はフロイトの見解にはあまり賛成じゃない。人間は自分の意思によっていまの自分になるんだと思ってる。きみが生きた例だろう。子供のころあんなことを経験したあとでどうなったか」
(中略)
「ぼくらが初めて会ったとき、きみは自分が妻に、母親になることを想像できずにいた。きみにとって家族は牢獄以外のなにものでもなかった。牢獄であり、拷問室だった。また家族の一員になりたいなんて夢にも思っていなかった」
ペイジは目を開いた。「あなたが教えてくれたのよ」
「なにも教えたりしなかったよ。ぼくはただ、いい家族を、健康な家族を想像するということをきみに伝えただけだ。いったんそれが想像できれば、きみはその可能性を信じられるようになった。そこから先は、きみが自分で学んでいったんだ」

「すると人生は、ある意味でフィクションだということ?」

「すべての人生は物語さ。ぼくらは生きつづけることで、その物語を紡いでいく」


巻末にSFホラー作家の瀬名秀明による長めの解説文があり、瀬名氏はここで大事な指摘をしている。
この作品自体がメディアと登場人物と読者を多重的な相関関係の構造の中に放り込むというメタフィクショナルな仕掛けになっているというのだ。

上記の引用の部分は『闇の殺戮』の希望論に作者の年齢を重ねた経験や思想から来る肉付けがされたものだと思っていたのだが、
いわれてみると、その肉付けは、作者のメッセージにただ深みが増したというそれだけではなく、このメタフィクションの構造を意識したものに間違いない。

それは、殺人鬼の行動原理が、映画によって決められているという設定にもいえるし、敵のエージェントが読む小説が彼の仕草や言動に影響を与えているということからも明確。
さらには主人公が娘たちに読み聞かせるサンタの物語が、殺人鬼と主人公の関係になっていることは言うまでもないし、瀬名氏の指摘にはなかったが、この考え方でいくと娘たちの飼っているペットやポスターまでもこの考えの延長で計算されて配置されているように思える。
とくに(これも僕が気に入ってる付箋した箇所なのだけど)ピーパーズの描写は傑作だ。
次女エムのペットであるピーパーズは、なんと川で拾ってきた石ころで、エムの最大の友達なのだ。
エムはものをいわない空想の友達に話しかけることで、現実に大いなる心の充足を得ている。
そういった描写によって読者は、フィクションとリアルの垣根はそう明確に分けられるものじゃないのだと気づかされる。
クーンツはこの作品で、物語の世界がリアルに干渉するというテーマをかなり意識的に描いているのだ。


メタフィクショナルな作品構造の中に、クーンツの(のちの作も含む)他作品がいくつもリンクしていることは、瀬名秀明の解説でかなり詳細に解説されているけども、こうなると前後の作品をいくつか読んだ上で、この1993年に書かれた『ミスター・マーダー』を手にしたのはラッキーだった。
それは瀬名氏が指摘しているメタフィクショナルな構造を楽しむ上でも必要なことだったし、
さらには、瀬名氏の資料を大量に引用した解説により、クーンツの生い立ちが、本書『ミスター・マーダー』を含む様々な作品へ濃い影を落としていることを、瞬時に理解できるからでもある。

とくに、僕の大好きな作品『心の昏き川』(1994)にて描かれている深い心の傷と癒しの物語が、『ミスター・マーダー』で描かれたものと根を同じにしていて、それはクーンツ自身の体験からにじみ出たものだと理解できたのは大収穫だった。

初期の乱作時代から年一作主義に移行してからも、クーンツは底の浅い作家だといわれ続けていたけども。
『心の昏き川』で描かれた癒しの物語には、そのような底の浅さはとても感じられなかったので、
これに深く感じ入ってる自分が軽率で騙されやすいのだろうかと気に病んですらいたのだ。
瀬名氏の解説は、そのクーンツの「深み」に保証書をつけてくれ、僕の疑念を吹き飛ばしてくれたようで嬉しかった。
僕も解説で触れられていたS・キングの『ダーク・ハーフ』との類似には気づいていたが、
この解説を読んだ後では、キングの創作のほうが薄っぺらく思えるではないか。



この資料的価値に満ち、正確な分析と考察と作家への愛情のこもった、瀬名氏の完璧な解説文を読んだあとでは、あえて書く事などほとんど残ってないけど、最後にどうしても言いたいことがある。

しかしそれは、この作品のオチに関することで、この作品を(クーンツを知ってる人も知らない人にも)もっとたくさんの人に読んで欲しいと思っている僕としては、逆に書きにくいことなのだ。
既読の人にはそのような遠慮はいらないので大声で叫びたいくらいなのだけど、
やはり遠慮がちに書くしかない。

この作品を読んでいるとき、僕はとても幸せだったのだけど、
ひとつだけ個人的に受け容れがたい部分があって、
それはそれほど一般的なことでもない個人的な感情の問題だし、
それは小説上の技巧のことだからしょうがないと、気にしないように勤めていた。

そしてクライマックス。
その僕の不満が、すべて充足される形で最高の結末が待っているのだ。
よくやってくれたクーンツという形で。
そのカタルシスは、エンターテインメントしてのものだけではなく、
やはり先に書いた「個人的な感情」によるところが大きい。
そして瀬名氏の解説を読んだ後では、なるほどと納得できるものであった。

結末をいうわけにはいかないので、ぼかして言いたいのだけど、
ほとんどオチをいっちゃうのと同じなので、このブログでは珍しく反転という手法を使いたい。
未読の人は見たら絶対損します。本屋さんへ走ってください。
以下、僕の心の叫び。




僕はスタートレックが大好きなんです!




ある意味この興奮は、僕が瀬名氏ほどに明晰な分析力を持っていたら味わえなかったものかもしれない。
解説を読んだあとで考えてみると、このオチは明確に計算づくで布石を置いて予定されていたものなのだ。
そして反転文字に隠した叫びに込められているように、僕はそのオチを予想する上で重要なことをもともと知っていたのだ。
あー馬鹿でよかった。

もちろん、僕と同じ条件を背景にした「感情」を持つ「未読」の人で、さらに「勘」のいい人ならば、
この文を読んでしまうことで「オチ」に気づいてしまうかもしれない。
だがそこまでは面倒見切れない。
この素晴らしい作品を紹介してあげた駄賃だと思ってください。

手に取るつもりのなかった人にとって、この小説との出会いは文句なしに素晴らしいはずなのだから。
クーンツ最高!
2009.06.29 Comment:0 | TrackBack:0
僕はクーンツが好きで、
モダンホラーの代表選手としてスティーブン・キングと対比されるこの作家の作品志向に傾倒してるので、比較論がでたときは迷わずクーンツと答えることにしてる。
悲観的な話は嫌なのだ。
キングの作品を読んでいると、魅力的な主人公が自己犠牲で死んだりする。
お話とはいえ嫌な気分になる。

クーンツはそこを意図的に明るい話にしている確信犯的な人で。
お金を頂いてエンターテインメントを楽しんでもらう以上、読後感もさわやかになって本を閉じて欲しいという職業的ポリシーをもった人。
そのエンタメへの姿勢を尊敬する。

だから、この人の作品は安心して読んでいられる。
もちろん、最後のページをめくるまで、主人公は絶体絶命の危機の真っ只中に放り出され、
いつ死んでもおかしくないくらいの危機が迫るのだが、
絶対死なないことはわかってる。
わかってるけど、ハラハラしてしまうのはクーンツの筆致の勝利。

80年代まで乱作も多かった人らしいので、年一作ペースになってしばらく経ってからの作品ばかり読んでた自分としては、
まだ乱作時代の作法を引きずってるようなイメージのある、80年代中ごろのこの作品はやや不安があった。

ブードゥーとか、動物パニックものに近いノリが好きでなかったので、
めずらしく速読で前半は飛ばし読みに近い読み方をしてたのだけど、
読みすすめていくと、さすがクーンツ。
じわじわと読ませる。

まあ、総合的にぶっちゃけた感想をいうと、フツー。
それ以上でもそれ以下でもない。
クーンツのほかの作品には震えるほどの傑作もあるので、比較するとどうしても凡庸な印象。

クーンツ自身の手による「ベストセラーの書き方」の手本のような類型的な作品でひねりがない。これまでのクーンツのお約束はだいたい入ってるハリウッドのパッケージの作品のよう。
そこがクーンツの悪いところでもあるんだけど。

主人公の「正義の人」という設定が、スケールの大きな悪魔と戦う上でキーワードになってるあたりはうまいと思った。
前半のチマチマした小悪魔に退屈してるうちに、いつのまにやら、物語はテンションをあげていって、最後には巨大な顔をもちハリウッドの最新のVFXでしか表現しようのないようなまがまがしい悪魔が出てくる。
たかだが人間を恐れる悪魔という、にわかには承服しがたい内容への不満や疑問を、「正義の人」という独特の設定で読者を説得し、疑問を難なく回避し。さらには、クーンツの掲げる「愛」「勇気」といったテーマと融合させててよかった。

作中の、悪魔の大群に追い詰められた主人公の心中を描写するシーン。
主人公の気持ちを書いていたはずが、この改行のない長文はいつの間にか作者自身の演説に変わっていく。

悪は絶望を食べて大きくなる。
悪に対する最大の武器は希望、楽観、固い意志、そして信念だ。
彼ら四人が生き延びるチャンスは、希望をいだきつづけ、生きることが(死ではなく)自分達の宿命と信じ、善は悪を打ち負かすと信じる、ただひたすらに信じる力にかかっていた。

ステレオタイプの聖と邪の戦いを描きながらも、
この描写には非常に個人的経験から思うところがあったもので、
クーンツの楽観論は、彼の正義論ともどもクーンツの人生訓が漏れ出ているように思えた。

なぜなら「悪」というのは、人間のもつ悪意に他ならず、
神や悪魔の代弁者として物語は進むのだけど、
人間の絶望を食べて生きる「悪魔」が、物語や映画のわかりやすいクリーチャーや「悪魔」などでなく。
人間の形をして他人から生気を奪い取ってなにくわぬ顔をして肥え太っている。
その愕然たる事実は、物語以外の現実から学ぶしかなく、
クーンツのこのエンタメ作家としてのポリシーだけでは語り切れそうもない、強迫神経症的ともいえそうな希望論や「信念」は、きっとニュース番組などから得た机上の見解だけではないだろうなと、
僕は勝手にそういう共感をもったからだ。

日本の新しいホラー小説の地平を作ったとして有名な「黒い家」を最近読んだのだが。
その「悪」に関して、別のアプローチをしてる作家が貴志裕介ではないか。
モダンホラーの雄クーンツと貴志裕介は実は根底で同じテーマを書いてる。
それは「悪意」の恐ろしさだ。
ホラーが怖いのはそれが現実につながる恐怖だからであって、
貴志裕介はラストで読者に「希望」をもたせるようでいて、
おざなりな楽観を提示している。
その中途半端さが、いかにもお茶を濁すようなやり口だったので、
作者は逆に絶望的な人間観や厭世観を強調したかったんではないかと疑ってさえしまう。
最後に提示した希望がおざなりだから逆に絶望が濃くなっているように思えるのだ。

クーンツの楽観主義とはまったく逆だ。
クーンツの楽観は脅迫的なまでの押し付けであり、
読者もその楽観を微塵も疑ってはいけないのである。
もはや宗教的で白雉的すらあるが、僕はこの楽観がすきなのだ。

ペシミズムは何も生まないが、妄信はなにかを生み出すことがある。
それがマイナスであれプラスであれなにかを生み出す。
妄信は現実を攻める力を持ってるからであって、クーンツ的楽観はそんなことばかり考えている僕の、いま求めてるものであるのだ。

2005.03.05 Comment:0 | TrackBack:0
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